エラボレーション(elaboration)
- harunokasoilibrary
- 3月23日
- 読了時間: 5分
更新日:6月1日
私の作品の作り方は、だめだと思います。この年齢(とし)になって気付きました。気付いた以上、やり直すしかありません。もう私の持ち時間はあまりありませんけれど、諦めるわけにはまいりません。自分の無能さに意気消沈してしまいますけれど、倒れるわけにはまいりません。私には夢があるのです。どうしてもやりとげたいことがあるのです。それから、できるなら、私の魂を純一なものにつくり変えたいのです。学べば学ぶほど私は、私のこれまでの人生が私の作品と同じように、貧弱なものだったと気付かされます。私から自信を奪い、私を叩きのめしたその人間たちに私はまた、決して諦めてはいけないこと、どこまでも闘いつづけなければならないことを教わりもしたのです。かれらに教わる以前にも、私はぼんやりと私の作品の作り方ではだめであると感じてはいたのです。私の作品の作り方は、およそ、次の、村上華岳のことばのようでした。
――我々画家の頭の中には清らかな水が湛へられて居る、筆を取ると水が通って来て自分が描いてゐるのか、神様が描いてゐるのか分らない。といふほど神秘的である。――
これはこれで私にはどうすることもできませんので、仕方がないのですけれど、大江健三郎さんの次のことばによって、私の作り方ではだめだと深く心をえぐられたのでした。
――武満さんは、自分がはじめにつかまえたとっかかりに発して、何度も何度もみがきをかけます。そのようにみがきあげることで、複雑化し、多層化させます。同時に、多様なままの、断乎とした単純化も行います。そのようなエラボレーションの過程が、つまり作曲することであった人なんです。――武満さんは、まず自分の「問題」を提出する、――そして、武満さんはその「問題」に立ち向かう、それと格闘する。この闘いのなかに、準備過程でかれが生き、経験し、考え続けていたものすべてが反映している。かれの生きること、経験すること、考える態度、そのスタイルまで、すべてがそこにある。その上で、武満さんの音楽は、つねに当の「問題」を解く。この解答は一様じゃないけれども、武満さんが全力をあげて闘った、そして闘った結果は、みがきあげられ、エラボレートされてここにある。――(「武満徹のエラボレーション」より)
このエラボレーションということばが私を叩きのめしたのです。エラボレーションの意味について私は充分感じてはいるのですけれど、まだよく理解しているわけではありません。大江さんの説明によりますと、このことばの意味は、――幾重にもかさなった、芸術作品をみがきあげる作り方。――のことです。この説明だけでは、よくわかりませんけれど、私はエラボレートしてこなかった、武満徹のようには書いてこなかったのです。エラボレーションだけが制作の方法ではありませんが、私が制作を通して人間として一歩一歩自分を高めることができなかったのは、この方法を自覚していなかったからだと思うのです。
私はあまりにも自分の天分を信じ過ぎていたのです。天啓のように閃いたイメージを即興的に書きつけてゆく、それでおもしろいものがでてきたらそれを作品にする。こんなやり方で自分をより人間的に高めるなんてことができるでしょうか。おめでたいことでした。さらに別の著書でも、大江さんはエラボレーションの実例を次のように語っていられます。
――私が小澤さんの指揮による、若い演奏家たちの練習を聴き、また、見もして感動したのは、そこにエラボレーションのすばらしい実例があるからでした。まだ少女のようなヴァイオリンの弾き手、ヴィオラやチェロの若者の弾き手たちと四重奏の演奏をしては、中断し、どのような音楽を作りたいのかを考え、そのためにどのように弾き、また仲間たちの音をどのように聴くかを、小澤さんが、――みちびいてゆきます。生徒たちはしっかりした技術と練習の積み重ねでそれについてゆき(自分で作りだし)ついには、さっきより優れたものとわかる音楽を仕上げてゆきます。――私にはこの若い人たちの人間そのもの、人生自体がエラボレーションをひとつ達成する、その大切な時に立ち会っている、という思いもしたのでした。――(『「自分の木」の下で』より)
作品をみがきあげること、みがきあげる過程で、自分の人間もみがきあげられること、そして、エラボレートされた作品を前にした人もまたみがきあげられ、共に人間として少しずつ高められるようになる。一人で作品を作るときだけでなく、大勢で作品を作るときにも、指導者のいる場合も、いない場合も、エラボレーションは、相手と同じ場所に立って、たがいをみがき高めてゆくことのようにも感じます。
作品を「添削(てんさく)」する、「推敲(すいこう)」するということと、エラボレーションの意味は、少し異なるようです。作品をつくり直したり、何度も考えを練ること(つまり添削する、推敲すること)は日本ではあたりまえのことですけれど、エラボレーションすることは欧米の作家にはあたりまえであっても、日本の作家では、ごくまれなことのようです。大江さんは、エラボレートしない作家の例として三島由紀夫のことをあげていられます。
――三島由紀夫の文体―それはエラボレートという、泥くさく人間的な努力の過程をつうじてなしとげられた、「美しい文章」ではないのです。――いわばマニエリスム的な操作で、頭のなかでこしらえたものをそこに書くだけです。書いたものが起き上がり自分に対立してくるのを、あらためて作りなおして、その過程で自分も変えられつつ、思ってもみなかった達成に行く、というのではありません。――(「武満徹のエラボレーション」より)
私は、二年ほど前に大江健三郎さんのエッセイ集『「自分の木」の下で』(朝日新聞社)と「言い難き嘆き持て」(講談社)の中で、エラボレーションということばに出会い、その後、折に触れそのことについて考えてもきたのですけれどまだよく理解するところまでには到ってはいません。しかし、私は、やり直そうと考えています。やり直せるかどうかはわかりませんけれど、やり直すことが生きることなのではないかと感じています。だから死なない限り、やり直すしかないのです。
武満さんと大江さんが、私の前に大きな作品のように起き上がり、私に対立しています。私はエラボレートしないわけにはゆきません。
(2003年8月・会員つうしん第67号掲載)


コメント