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と言いたいところだけど―無差別平等―

  • harunokasoilibrary
  • 6月7日
  • 読了時間: 5分

 毎朝、一番に起きて、と言いたいところだけど、

 そうではなくて、かなり寝坊して、と言うのも、鳥たちや、虫たちや草花たちは、もう起きているから。狭いベランダ農園で、と言いたいところだけど、

 本当は、皇居のようなお屋敷の広大な庭というよりも、もっと果てしない銀河の中を彷徨(さまよ)っているメダカに餌をやり、と言いたいところだけど、

 偶々(たまたま)メダカの姿をしている母の分身に、大好物の柿のつもりの、買ってきたメダカの餌をお供えして、少しの花や野菜に、と言いたいところだけど、

 水や土や、まどみちおさんの言う永遠光が、赤や黄や緑に変身した生命に、水や肥料をやる、と言いたいところだけど、

 化学反応がスムーズに行われるようにエナジーの原料を追加するのが僕の日課である。

メダカは数十匹はいるだろうか。メダカ達は、生まれて間もないホコリのようなものから、巨大な鯉とみまごうものまで、ケンカをしながら混ざり合って暮らしている。しかし、あまりにも小さなホコリかなにか分からない位のものは、餌とまちがえられて親に喰われてしまうかもしれないので、少し大きくなって、この馬鹿のような哀れな親から自力で逃げられるようになるまで、別の容器で飼ってやらなければならない。哀れな馬鹿のような親とかるく言ったけれど、メダカの世界には親子の愛情などという倫理はないようなので、人間界と同列に批評する僕は、底なしの大馬鹿なのかもしれない。と言いたいところだけど、

 生も死もないメダカ達には、親も子もないのである。自然の摂理に従って、産卵し、孵化(ふか)し、僕たちには分からない理由で、喰われるものは喰われて、別の命になり、生き残るものは生き残って、新しい命になる。命は増えも減りもしないのである。メダカの世界には倫理などといった陳腐なものはないけれど、そこには本当の愛がある。

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 死ぬ前のメダカは、動きが鈍くなって、あまり餌を食べなくなる。身体の色にも、なんとなく艶がなくなる。寿命なのか病気なのか、僕には判然としない。死んだメダカは、自らの排泄物やゴミが沈殿して、フワフワの土のようになった上に横たわり、いつの間にか、その塵芥(ちりあくた)の中に姿を消してしまう。と言いたいところだけど、

 メダカと名付けられた母の分身は、変身の準備をするために食事をしなくなり、動かなくなる。病気になったりもするが、それは変身をスムーズに行うための自然の企(くわだ)てなのである。より生命の構成物質に近い、原子に戻る直前の休息地帯に横たわったメダカは、安らかな寝顔になって夢の無限世界へ旅立って行く。

 ああ、僕の母と変らないなあ、母も亡くなる数か月前から、あまり食べなくなり、顔はピンボケの写真のようにぼやけ、目には艶も力もなくなって、何も話さず、花瓶に挿した枯れたバラの花のように、車椅子の上で、うつらうつらと頭(こうべ)をたれていた。そして、メダカと同じように、母の死も、静かに、人知れず訪れてきた。と言いたいところだけど、

母は死の床で、半開きの、優しく穏やかな目をして、声にならない声で、くちびるを微かに振るわして、僕に何か不思議な言葉をつぶやいた。それは、「ありがとう」とも「何も悲しむことはないよ」とも「わかっているよ」とも「悩まないでね」とも「さようなら」とも聴こえるようであった。

 その後、僕の知らないうちに、母は夢の世界へと旅立って行った。死に顔には艶があり、清らかな光につつまれて、生き生きと輝いていた。

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 良寛は、晴れた日には、日向ぼっこをしながら、衣服についたシラミをとって、紙の上に這わせ、夕方になると、またひろって、服の中にもどしてやった、という。

 次のような歌や句も詠んでいる。

 のみしらみ 音(ね)に鳴く秋の 虫ならば 我がふところは 武蔵野の原

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 夏の夜やのみを数えて明かしけり

  良寛の生き方は、道元禅(どうげんぜん)だけでなく、荘子(そうし)の「万物斉同(ばんぶつせいどう)」の思想からも大きな影響を受けていると思われる。これは万物は平等である、草や木も動物や人も、みな同じ価値を持っている、という無差別平等の思想である。

良寛の詩に「非人八助(ひにんはちすけ)」がある。

 

 金銀官禄還天地   きんぎんかんろく、かえる、てんちに

得失有無本来空   とくしつうむ、ほんらい、くうなり

 貴賤凡聖同一如   きせんぼんしょう、おなじく、いちにょ

 業障輪廻報此身   ごうしょうりんね、むくゆ、このみに

 苦哉両国長橋下   くるしいかな、りょうごくちょうきょうのもと

 帰去一川流水中   かえりさる、いっせんりゅうすいのうち

 他日知音若相問   たじつ、ちいん、もし、あいとわば

 波心明月主人公   はしんのめいげつ、しゅじんこうと

(大意)

 財産や立身出世や名誉などは、やがてすべて天地にもどるものであり、物を得たり失ったり、また物の有る無しも、もともとは実体のないものである。身分が高いとか賤しいとか、なみの人とかすぐれた人といっても、人としての本質は同じで差別はなく、ただ悪い行いによって生じたさしさわりが、生まれかわるたびに報いとなって現れるのである。

 気の毒に。両国橋の下に暮らしていた八助は、川の流れの中に消えてしまった。しかし後日、わたしの親しい友人が、八助について尋ねたならば、わたしは、川の真ん中に浮ぶ満月のように、八助の実際の姿はなくとも、もともと持っている仏性が、光り輝いていると、言おう。

 非人とは、穢多(えた)と共に、江戸時代の身分制度である士農工商の下におかれた最下層の身分の人々である。さらに、この最下層の身分制度に入らない、身分のない人々もいたという。

 いかなるが苦しきものと問ふならば 人をへだつる心とこたへよ

 と良寛は、人を差別する心ほど恐ろしいものはないと詠った。

 人間は本来平等である、という良寛は、さらに、人間だけでなく、あらゆる生き物は、完全に自由平等であると信じていたのである。また、生死は一如であるということも。と言いたいところだけど、

 人間が平等であることは言うまでもない事で、それが未だに、現実には、差別だらけで、実現されていない事が、人間として恥ずかしいと思うけれど、のみやしらみや蚊と自分が同じものだと言われても、とても常人には信じる事は出来ないであろう。しかし、非常識な奇人にならなければ、真実を知ることは不可能なのである。

(2016年10月・会員つうしん第146号掲載)

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