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ただの言葉と書の言葉

  • harunokasoilibrary
  • 2月24日
  • 読了時間: 5分

更新日:6月1日

 よく人は、美しい言葉を書きたいという。どうせ書くなら美しい言葉にこしたことはないと考え、美しい言葉はないかと頭のすみずみまで引っかきまわして捜しまわる。これがなかなかたいへんで、いざ書こうと思ったらそう簡単に美しい言葉が見つからない。しかし今は便利な世の中で、頭の中をかきまわすより本屋や図書館に出かけていけば「墨場必携」や「名言名句辞典」の類いがいく種類かおいてあり、気の利いた美しい言葉が季節ごとや内容別に整理整頓されて、どうぞわたしをお使い下さいと、キラキラ輝きながら出番を待っている。しかしいざ調べるとなるとこれまたたいへんで、高尚な言葉、意味の深そうな言葉、さっぱりわからない難しい言葉、格式ばった言葉、おそろしい言葉、言葉、言葉、言葉、美しいといわれる時代がかった有名な言葉がどこの誰だかわからない編集者によって選ばれている。どれを選んだらよいのかこんどは頭が引っかきまわされて疲れはて本を置くかあまり感動もしていない適当な言葉を選んでよしとすることになる。便利だと思っていた「墨場必携」も普段の生活からかけ離れた美しくも立派な空言(そらごと)の集積のように思えてくる。もっとも創作の第一歩としてはこのようなあんちょこに頼るのもしかたないことかもしれないが。

 

 ところで昔から歯が浮くような美しい言葉に対して日本人は不信の念を持ってきたといわれている。中国人にもそのような思いがあったようで、「信言不美、美言不信。」(信言は美ならず、美言は信ならず)口語訳では「真実味のある言葉は美しくなく、美しい言葉には真実味がない。」などの言葉を残している。美辞麗句で飾られた言葉に対して不信の念を持ってきたのである。西洋人もその他の国の人びともきっとそうにちがいないと思うのだが、残念ながら過去も現在もそれとは正反対の現象がいたるところに見うけられるのはどうしたことだろうか。いんちき商品を売らんがために、いんちきがいいすぎなら商品を売らんがために、厚顔(こうがん)無恥(むち)にも様ざまな美しい虚言を毒物のようにまき散らす。狡猾(こうかつ)な政治家たちは、わかりやすい、あるいは難解な、物事の本質から目をそらさせるような美しい虚言で国民を欺く。教育はどうだろうか。もしかして、幼児の頃から幼児教育者やそれにつづく初等教育者や地域の大人たちによって、生き方は自分で決めて人間らしく自由に生き、真実を見抜く力を日毎に培うのとは正反対の愚民教育が、優しい人間とか、明るく元気とか、生きる力とか、益にも害にもならない美言のもとに公然と行われているのではないのか。もちろん良心的な先生達や政治家や企業家や、多くの国民がいることも事実である。しかし今のところ、動物的な力がまさり、人間らしい方向とはやや異なった方向に人びとの運命は迷走をつづけているようである。私は、怒りを通り越して、悲哀を感ぜずにはいられない。先に生まれた人間が美しい言葉ではなく、真に美しい言葉、つまり真実味のある言葉をしっかり身につけて、後から生まれた人びとに伝えていかなければ一刻一刻、人間だけでなく地球そのものがむしばまれていくことをくい止めることはできないと思うのである。

 

 さて書の内容とは何か。難しい問である。寺田寅彦の随筆「科学と文学」の中に次のようなくだりがある。「文学の内容は『言葉』である。言葉でつづられた人間の思惟(しい)の記録でありまた予言である。言葉をなくすれば思惟がなくなると同時にあらゆる文学は消滅する。」この文章の文学という個所を署に置き換えると書というものがよくわかるのではないか。文学は、文字どおりの意味での言葉、つまりただの言葉をつづることによって思い考え、思い考えるだけでなく、考えを深め、思いもよらないような新発見をしたり、ただの言葉以上の意味内容の世界を形づくる。書にとってただの言葉は、単なる器(うつわ)、つまり中に何も入っていない空(から)のいれもののようものである。この空の器の中に作者の言葉をそそぎこんではじめて書というものになる。作者の言葉というのは詩文なり語なりに対する作者の思いや考えのことである。この思いや考えは、書の方法によってつづられていくことになる。書を読むというのは、ただの言葉を読むことではなく、この書の方法によってつづられた作者の思いや考えを読むということである。書の方法は書に固有の方法であり、書に固有の方法は、長い歴史の中でつぎつぎに作られ積み上げられ、今も作りつづけられている。これを書の言葉と私は考えている。例えば、「平和」「核兵器廃絶」とか日本国憲法を書いたからといって、また名言名句や大衆が喜びそうなスローガンを書いたからといって価値のある、良い書である保証にはならないのはもちろん、それが書の言葉ではなくただの文字で書かれているとしたらそれは書であるとはいえないし、人びとは書を読んでいるのではなく、ただの言葉として書かれている文を読んでいるにすぎない。また仮に書だとしても書の言葉遣いが未熟ならば本来の言葉の意味以上のものは何ひとつ語らないというだけならまだしも、本来の意味内容でさえ語らないということにもなりかねないのである。書の内容は「言葉」ではあるが、それは単なる言葉ではなく書の固有の書の言葉である。しかし書の言葉を使えば、書にはなっても、ただちに美しい価値のある書になるというわけではない。大切なことはこの書の言葉によってつづられた言葉の世界が独創的で何かしら新しい発見なり、新しい見方、考え方、とらえ方があり、またそれによって作品を見る人びとの人間を大きく豊かにし、成長させるようなものでなければ価値のある書とはいえないのである。もちろん美しい感動的な言葉を書くのはよいが、言葉には真心がなければならない。新しい見方、考え方以前に、真心がなければならない。書こうと思っている言葉に嘘はないか、とことん考えぬくことが真心のはじまりであり、真実の言葉にいきつくはじまりだと思う。

(1998年9月・会員つうしん第36号掲載)

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