ことばと不快
- harunokasoilibrary
- 2月15日
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更新日:6月1日
人は文を読んだり話を聞いて愉快になったり不快になったりしますが、どちらかといいますと、わたしの場合、不快になる時のほうが多いように思います。愉快な文にはめったにお目にかかりません。愉快な文にばったり出会ったりすると傍線を引いたり、メモを取ります。そして事あるときも、ないときもチラチラとそれを読み返します。そしてますます愉快になったりします。たまにはなぜこんなところに傍線を引いたのか訳が分からないときもありますが、たぶん線を引いたときに何か心に触れるものがあったのでしょう。
それはともかく、今、不快ということばを書きましたが、このことばは、画家のミロの文の中に出てきた不快ということばが愉快だったのでメモしておいたものです。そのメモを眺めながら今この文を書き始めているのです。その一節を書きますと「(略)それは私と私が作りつつあるものとの間の戦い、私とキャンバスとの私と私の感じている不快との戦いだ。(略)不快が止むまで私は仕事を続ける。(略)」です。この文を読んだとき、ミロの真意はともかく、わたしの制作もまったくミロと同じ気分でなされていると共感したのです。不快なものとの戦い、自分を愉快にするための戦いといってもいいのですが、これは、単に孤独な自分だけの戦いではないように思います。ミロの孤独な戦いに、わたしという他者が共感し勇気づけられもしているのですから。
ある文または、ことばを読んだり聞いたりして不快になるのは、あくまでもわたし個人の感じ方なのですが、ことばというものは、もちろん、わたし個人のものではありません。長い時の流れのなかで、生まれたり見えなくなったりしながら、人間と自然とによって作られてきたものだとわたしは思います。わたしが不快になるにはなるだけの理由が、わたしという個人を越えてあるのではないかとも思っています。
今は、夏が逝き秋が大きくなろうとしています。いつのまにか蝉の声は舞台から消え、それにかわってコオロギの歌声が、静けさのなか悲しく切なげに響いています。わたしは、その幽かな合唱を聴きながら、モヤモヤしたあるものを感じています。そして何かことばによってそのモヤモヤとしたあるものを考えたりもします。今、幽かな合唱と書きましたが、このことばは、ディキンソンという詩人の「鳥たちよりもさらに夏おそく」という詩のなかに出てくる「幽霊のような聖歌」(コオロギの声のこと)ということばに愉快を感じインスパイアされて出てきたものです。このことばを知るまで、わたしは、ただコオロギの鳴き声だけをさまざまな想念のもと感じていたように思います。この詩人のことばを知ってからは、何かはっきりしたコオロギのイメージをもってコオロギの声を聴いているように思います。
実はこのことばを、はっきり知るまえに、わたしは「虫」という字の作品を書いていたのです。それは虫を生命の象徴として書こうと考えて書き始められました。書きあげてから、タイトルをつけるときに、この詩のなかの先ほどのことばを知ったのです。わたしのイメージとこのことばがぴったりのように感じたわけです。正確に言いますと、このことばだけではなく、この詩全体、さらにディキンソンという人間を通してわたしが感じた世界が、わたしのこの作品にはぴったりだと感じたのです。ついでに言いますと、はっきり知るまえに少しだけ知っていたと言ったほうが正しいかもしれません。少しだけといいますのは、武満徹という音楽家の曲に「スペクトラル・カンティクル」という曲があります、そのタイトルの意味も知らずにその曲をわたしはテープで聴いていました、何度も聴いているうちに、その意味を知りたくなり、調べてみますと、これがディキンソンの先程の詩のなかの「幽霊にような聖歌」の原語だったのです。というわけで、わたしは、はっきり知る前に、少しだけ知っていたのです。
画家のミロ、音楽家の武満徹、詩人のディキンソンたちが、絵や音楽や詩文を通して語りかけてくることばの世界に、わたしはなにか愉快なものを感じて共感し、啓発されもします。残念なことに、わたしの場合書家に愉快を感じるのは、現代人では、数えるほどしかいません。不快を感じるばかりといっていいくらいです。どこか、わたしの知らない所に愉快な作品と人が在るのかもしれませんが。
いろいろ考えてみますと、絵や音楽やそのほか人間の作ったもの全ては、ことばの世界であると思います。わたしは、それらが表現している世界に、またそれらを作り出している人間に不快や愉快を感じているのだと思います。もちろんこの感じ方は、たとえ多くの人びとと共通したところがあったとしてもあくまでもわたし個人の特殊な感じ方にすぎません。まあ変人のゆがんだ感性といいますか、そんなところです。
それはそれとしてわたしも、人並みに愉快に活したいので、ミロのように制作によって不快と戦っているにすぎません。何に不快を感じるかは、その人の人間性や人間的な重さ、容量に深くかかわっていると思います。わたしは世の中に対して不快ばかり感じている人間を良いとは思いませんが、それ以上に、現代社会に愉快を感じている人間に好感をもつことはできません。それどころかそういった人間が人間社会のさまざまな場所で大きな顔をしだしている現状に危惧を抱かずにはいられません。
人間など比較にならぬくらい偉大な自然は我慢しているのだと思います。いつ堪忍袋の緒が切れるか、わたしは不安でもありますが、切れてほしいとも感じています。生命を作り出した偉大なる自然に比べれば人間の作り出した文字や文明なんてものは取るに足らないもののようにわたしには思えます。わたしが不快を感じることばの背後には、自然や生命を軽くみる、思い上がった人間観、文明観があるのです。文字文明だ、文字文化だ、日本文化だなどと声たかだかと権威ぶる人間たちのことばの背後に、強くそれを感じます。取るに足らない人間(誤解しないでください、いうまでもなく人間の命は、かけがえのない重いものです。虫一匹と同じくらいに。つまり、高慢で自然を越えたと思い上がっている人間)を奉ったり、奉られてほくそ笑んでいる人間達がいる限り、平和も真の自由も訪れないでしょう。そのような情けない心は、わたしのなかにも在ります。他の人のことなど言えたものではありません。わたしは、わたしのなかにある不快と戦っているといったほうがほんとうでしょう。
最後にわたしが愉快を感じていることばの一つを引用しておきましょう。「人間は、すべての生物に対して思いやりをかけるシュバイツァー的倫理―生命に対する真の崇敬―を認識するまでは、けっして人間同士の間でも平和に生きられないであろうというのが私の信念です。」(レイチェル・カーソン)
(2001年9月 会員つうしん第55号掲載)


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