「九条」の制作
- harunokasoilibrary
- 2月1日
- 読了時間: 6分
更新日:6月1日
「ついに来たるべきものが来た」と、唾(つば)をごくりと飲み込んだのは昨年の懇親会の席であった。書展を支えている頼もしい仲間や、遠来のゲストに囲まれたその場には、心地好い緊張と親しみがいつもあった。それは、私には年に一度の楽しい席である。酔いが少し回ってきたころ、小原(おはら)純子さんが、遠慮がちに、そして断固たる決意をにじませた声で「先生にお願いがあるんですけど」とおっしゃった。私は、これは難しいことに違いないと直感し、少し緊張して「はい、何でしょう」と答えた。
「九条を書いていただけませんか」
やはりそうだったか。蛇に睨(にら)まれた蛙のように、私は怖(おじ)けて一歩も引き下がることができなかった。今まで揮毫(きごう)を依頼されてうまくいったためしがない。
「はい分かりました」と安易に肯(うなず)くわけにはいかない。しかし、声に切実な祈りのようなものを感じ、無下(むげ)に断ることもできなかった。
以前、私は「日本国憲法前文」や「教育基本法」を作品にしている。それは誰に頼まれたわけでもない。どうしても書きたくて書かずにいられなくて書いたものであった。それは他人(ひと)の為にではなく私が生きつづけてゆくために書かれた。細かいことは忘れてしまったが、「憲法前文」を制作したときには、数かぎりない生命の犠牲の上に今があり、はらわたが煮えたぎるような苦しみと悲しみの果てに、人類が、やっとたどり着き発見した言葉の結晶が「憲法前文」であるように思われた。そこには永遠の愛と希望があるように思われた。私の書く一点一画は人類数万年の苦悩の象徴であったが、私はその悲しみを書きながら、書くことによって希望を発見した。
それから数年後「教育基本法」を制作した。書き始める前は「子どもの権利条約」なども読み、子どもと教育に人類の希望を見た。子どもたちを飢えと暴力から守り、自己も他者も傷つけない慈愛あふれる人間に育てる以外に人類の明るい未来はないと思われた。しかし、書き進むなかで言葉に対する疑問が生まれてきた。どんなに立派なことを言ったところで、それは単なる言葉に過ぎないではないか。言葉などいくらでも嘘でぬりかためることができるではないか。立派な言葉であればあるほど、それは、うそうそしく、虚しく、建て前にすぎなく聞こえてくる。それでも、私は、何処(どこ)からやって来たのか分からない爆発的な力によって作品を書き上げた。出来上がった作品の中央には、どうしても書くことのできなかった白い小さな窓が現れていた。その窓の向こうの空白に、限りなく奥深い、無限の世界が在るように、私には思われた。それは言葉の向こうに在るもののように思われ、言葉は幻想に過ぎないと感じた私は、タイトルを「ファンタジー」とした。「教育基本法」はファンタジーに過ぎないとしてもファンタジーの向こうにリアリティが在る、と、私は感じもしたのだが、この作品の後、言葉を書くことに空しさを感じた私は、言葉や文字の源流へと舟の舳先(へさき)を向けたのであった。その時からもうすぐ十年になろうとしている。
書の創造とは何であろうか。書は言葉を書くものである。その言葉は話し言葉ではなく、書き言葉として文字になった言葉である。だから書は文字を書くことである。しかし、その文字は文字なら何でも良いのではなく、漢字と漢字から生まれた文字に限定される。つまり、書は東アジア漢字文化圏の芸術だということである。漢字という不思議な文字が書を生み出したと思われる。アルファベットなどは書にはならないであろう。書はローカルで特殊な芸術であるが、芸術という点で世界の芸術とつながっている。書がほんとうに解れば、世界中の絵画や彫刻や音楽などすべての芸術が理解できるはずだと私は思う。書はローカルではあっても東洋人にしか解らない伝統などではなく、世界に開かれた窓である。書を通じて私たちは普遍的な人類につながることができるのだ。
すべての芸術作品には「何か」が描かれている。その「何か」とは芸術の内容のことである。そしてその「何か」は何らかの方法で描かれている。それは「いかに」描かれているかということである。その「いかに」とは芸術の形式のことである。芸術作品には必ず内容と形式がある。内容が形式を決定するとも思われるが、形式が内容を導き出すとも考えられる。どんなに素晴らしい内容を持っていても書き方が陳腐ならば内容は表現されることはない。芸術はすべて形式によらなければ鑑賞することはできないから形式は内容以上に大事なものである。如何(いか)に描くかが解らなければ内容を表現することは不可能である。描き方が内容を決定するのである。しかし、私たちは多くの優れた芸術に触れることによって自己の人間的な内容を豊かにしつつ学んでいる。その学んで内容が豊かになった人間がまた新しい描き方を発明もするのである。内容がないところに形式もまたないのだと、私は思う。
「教育基本法」の制作以来、私には、どうしても決着をつけなければならない課題が残されていた。それは、「言葉の表現は可能なのか、そしてそれにどんな意味があるというのか、そして世界から暴力を一掃する方法は何か」という課題である。私は先へ先へと決着を延ばしていた。小原純子さんは何者かの使者のように私の前に現れ、決着をつけろと迫ったように私には感じられた。
「憲法九条」が、ほんとうに世界を平和にすると信じている人がいることが私には信じられない。「憲法九条」で世界の平和は実現しないであろうと、私は思う。「九条」が平和を守ってきたとも私は思わない。単なる言葉に過ぎないものを狂信的に信じて祭り上げている人たちやその指導者を私は疑っている。私は、政治は相対的なものだと考えているし、政治家も信じていない。「九条」の言葉は陳腐である。私には九条は書けないだろうと考えていた。しかし、決着をつける時が来たのだと感じて、一年がかりで憲法や九条について思索をつづけた。そして少し光が射してきたように思う。何とか書けそうである。言葉の背後にある世界は人類の英知であり生命進化の最先端であるように思われる。その思想はヨーロッパの苦闘の歴史の中からやって来たと思われるが、しかし、それは人類の歴史と置きかえられるものである、と私は感じた。さらに新たな問題も見えてきた。それは、「憲法」は人間の「脳の産物」であり「こころ」の産物ではないということだ。真実は「こころ」の方にあり「脳」にはないように思われる。「脳」と「こころ」を如何に調和させるかが平和と暴力の一掃にとって最大の課題となるように、私は思う。
「九条」の内容はとてつもなく深いものである。あとはそれに釣り合った形式を発見できるかどうかである。私は全力でこれらの課題に取り組んで行こうと思う。そして、わくわくしながら筆を執っている。臆病者の私を動かしてくれた小原さんに感謝しながら。
(2009年4月 会員つうしん第101号掲載)


コメント