雀の水滴
- harunokasoilibrary
- 2025年2月14日
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更新日:2025年6月1日
清水(きよみず)の門前にある森陶器館で、私がデザインしたやき物を作って頂くことになった。私の構想スケッチ―スケッチといっても、だいたいのものが正確な原寸図で描かれている―を前にして森さんと十分検討を重ねたつもりでいたが、いざ作り始めてみると私の構想には、ムチャが多くて、実現不可能なものもでてきた。それから、だいたいのものは、森さんを中心に数人の若い陶工が、形を作ってくれるのだが、私のスケッチだけでは、白化粧の掛け具合や、器の微妙なそり方や、ゆがみ具合などが決定できないということなので、私は、できるだけ時間をつくって、清水に出かけ、細部にいたるまでいちいち彼等に指示することになった。彼等が、私の指示に従って作っている間に、私も団子状の土を叩いて、引き延ばし、皿を作ったり、鳥の水滴や墨床などを作ったりしている。水滴は一日七時間ほどかけてやっと二~三箇しかできない。
皿の厚さや、そり具合、化粧土の刷毛目の方向など、細かいところまで丁寧に若い陶工たちは、私の指示に従い、私のイメージが実現できるようにと細やかな心遣いをしてくれるが、いざ私が土に触れはじめると、考えぬいたはずのイメージがどんどん変わっていく。次つぎと新しいイメージに変更されていく。ついに、「土の変更は、これ以上しないでください。土がもったいないですから。」と若い陶工にしかられてしまう始末である。
私は土の前に座るとほとんど休まずに鳥の水滴を作っている。写実的な形ができたら、次の鳥は少し抽象化されたものになっている。大きなものから小さなものまで大きさは、様ざまだ。家で飼っているセキセイインコも形になった。清水までの道で見かけた鳥たちの姿も浮かんでくる。天気の良い日は自転車で通っているのだ。途中で鳥を見かけるとしばらく止まって観察をする。カラスや鳩はもちろん、セキレイ、ユリカモメ、サギ、カモのほか名も知らぬ鳥を何種類も見かける。雀は群をなして遊んでいる。とくに私は雀が好きなので雀の水滴を何箇も作ろうとしている。雀やインコの仕草を思い浮かべて土をいじくっていると時は瞬くまに過ぎて行く。夕方になって、心が慌ただしく感じるようになったら私は手を止める。尾羽根の先からクチバシの先までどんな細部にも気の抜けたところがあってはならないと思うからだ。
何年も前から、この手で水滴を、自分の気に入ったように作ることが、私の夢であったのだ。それがやっと実現したのである。願い続けていた夢がいつのまにかかなったのだ。私は疲れも忘れて、雀の愛らしい姿を思い浮かべ、ワクワクしながらその頭の大きさや形、胴のふくらみ、尾羽根の立ち具合や胸の張りかげん、目元の表情などを、タドタドしい手付きで形にしているのである。水滴の形をきめるのは雀という具体的な小鳥の形だけではない。胴が張って、ふっくらとして、やはらかく、見た目にも触っても豊かな心持ちになれるような形も理想の形として私のなかにある。また水の出具合が問題だ。いままで、いくつもあちこちで水滴を買ったけれど水のもれないものは二~三箇しかない。いろいろ工夫はしているものの、焼き上げて使ってみないと分からないのが心もと無い。私の描いた雀の最初のスケッチは、雀を一箇作るたびにどんどん変わっていく。あとひと月もすればどんな形になっているのやら。私も楽しみである。
私が鳥に集中してひとり悦(よろこ)んでいると、若い陶工が、遠慮しがちに声を掛けてきた。白化粧の掛け具合はこれでよいかどうかという。もう少したっぷりと、しかしたれすぎてはジジムサイから気を付けてとか、刷毛は一方向では単調だから、水が流れるように風が吹くようなつもりでこんなふうにとか、実際描いてみたりして、説明する。
花弁(はなびら)型の皿がどこまでできているか、見に行ってみると、いくつもヒビ割れたり、へんにそりくりかえったり、ぺちゃんこになったりしているものができている。なかなか難しいものである。白化粧が書き頃に乾いたので、ためしに、字を彫ってみてくれといわれ、彫ってみる。また、ほどよく乾いた黒土の上にためしに白化粧で字を書いてみる。書き心地はまずまずだが、焼いてみないと色の効果が分からない。なんとももどかしい。
若い陶工たち数人は、一階の仕事場で、ドタンバタン、ガヤガヤとやっている。私は地下の誰もいない広い仕事場でひとり静かに土をひねっている。作りかけの雀をながめながら、ここに来る途中で見かけた紅梅の愛らしかったこと、ふっくらとふくらんだ海棠(かいどう)の蕾、風にそよぐウグイス色の柳の枝を、言い難い悦びに包まれて私は想い出し、手を休めて考えた。そこからは外が見える。雪がパラついている。時折パラパラと雨の音もする。にぎやかな表通りとは反対に静かな民家の裏庭である。山の端のむこうには空が少し見えている。その空の彼方には、見知らぬ国がある。見知らぬ国のこども達は、何か無心に作っているのだろうか。その瞳には、何が映っているのだろうか。心ないおとなたちの愚かな姿しか映っていないのかもしれない。私は恥ずかしくなった。
(2003年2月・会員つうしん第64号掲載)


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