表現と死
- harunokasoilibrary
- 2月25日
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更新日:6月1日
暖かい風は、春を待つ生きとし生けるもの達に生の悦びの予感を届ける。ぼくもその生き物のひとつとして、春の喜びの予感を感じている。春風は生きようとする全ての命を励ますかのように、日一日と吹きつのる。やがて予感は現実となり、むせかえるような官能の春となる。この毎年毎年くり返される春も、まるで今年の春が初めて出会う春のように感じるのは、ぼくだけなのだろうか。同じ春は二度とは来ないのだから新しい初めての春のように感じるのは、たぶんぼくだけではないだろう。人間以外の生き物や草木(そうもく)山川(さんせん)が、人間と同じように春を感じているのかいないのか、ぼくにはわからないが、何か人間とは別の仕方で春を感じているのかもしれない。彼等は、ただ無心に綿綿と毎年同じことをくり返しているように見えるけれど、そうではないだろう。むせかえるような春の官能と背中合わせに、死という絶対者が静かに微笑(ほほえ)んでいるのだから。生は死から逃れるように官能的に悶える。しかし死は決して的(まと)を外さない。全てに平等にやってくる。全ての生き物は、死という絶対のものにむかって束の間の生をむさぼっているのだ。死を忘れて本当の生はあり得ないだろう。時を刻むのは人間だけだろうが、人間とは別の刻み方で、人間以外のものたちも死への時を刻んでいるのだろうか。全てのものは、春をくり返す度に老いる。生き物は老いつつ生に悶えるのだ。生き物でないものも、老いつつ解体に向かう。
なぜ死なねばならないのか、ぼくにはわからない。ぼく(人間)の前には極めうることなどありえない、自然という謎が、真黒な宇宙のように静かに音もなく在るだけだ。それでも、ぼくの素朴な願いは、みんな死なないで欲しい、という叶わぬ願いだ。いつまでもこのままでいたいという愚かな妄想だ。よからぬものどもは、全くなくなってしまってもよいが、愛する全てのものだけは、今のままでいつまでも死なないで欲しいという叶わぬ祈りだ。老いたくないという決して実現しない願望だ。なぜ死なねばならないのか、過去、現代の、あまたの優れた科学者や哲学者や宗教者の、どのような説明も、この死という現実を、何の抵抗もなく受け入れる気持ちにはさせてくれない。やはり、ぼくには、わからないという言い知れぬ憂いが付きまとうだけだ。死が近づいてくると、死に行く者の多くは、初めは抵抗し、やがて諦めて死をおとなしく受け入れるらしい。突然の予期せぬ死に対しては、我われ(人間)は、ただその不条理に悲嘆にくれるだけしか仕方が無い。生とは、このように儚(はかな)く頼りないものなのだろうか。ぼくの脳裏を、めくるめく色とりどりの死が、暗黒に吸い込まれるように、過(よぎ)ってゆく。人の死だけでなく、人以外の生き物や懐かしい物どもも一緒に、目の奥の深淵から浮かび上がったりまた沈んだりして、グルグルとのた打ち回り、現れ、そして暗闇に消えてゆく。生とは死の海のあぶくのようなものに違いない。
死こそが実で生は虚であると、このようなことをどこかの哲学者が言っている。死こそが永遠で生は刹那にすぎないと。しかし死と同じだけの生が実在したことも確かなことであろう。死が永遠なら生もまた永遠なのではないのか。しかしまた生は何か大いなる暗黒から浮かび出て、またたく間に消えていく水泡のようでもある。やはり死だけが永遠なのか?今のぼくには解答することはできない。死は死んでみないと分からないことではある。死そのものについては何人(なにびと)も答えることはできないであろう。考えても仕方ないことなのかもしれない。
ところで、ぼくは多くの芸術作品に昔も今も感動し、生きる喜びを感じ、励まされ、幻想かもしれないが死までの距離をいくらか引き離されたような、死の不安から解き放されたような気持ちにさせられる。それはほんのひと時だが、今その感動した作品のことを思い返してみると、それらの作品の多くが、死というものを、深い影のように背後に忍ばせているように想える。これは、ぼくという個人の特殊な感想ではあるが何か普遍的な真を含んでいるようにも想える。生と死という相反するものの相剋と、決して避けることのできない死に対する悲しみが、美そのもののようなルドンの花の絵や、モーツァルトの音楽を生み出したのではなかろうか。クレーやミロの作品は、ユーモラスなものどもや抽象的な形象の中に、深い悲しみの影を宿しているように感じるのはぼくだけではあるまい。ピカソの多くの絵も、生のあがきと、哀しみへのエレジーのように聴こえてくる。束の間の生ではないか、争うのはやめてなぜ愛し合えないのだ、愛し合うだけでよいではないか、なぜ争い殺し合うのか、言い知れぬ憤りと、悲哀が、生の短さと、理不尽な死に対する憤怒が、魂を浄化するような作品となって結晶しているのではなかろうか。武満徹の音楽の中には、たとえ束の間ではあっても、この世に生をうけた喜びとその生を生み出した、人間の生などはるかに超越した大いなるものの存在に融け込んでゆくエクスタシーさえ感じる。ここでは、生も死も相反するものではなく、生も死も融かし込んだ、より高次の生命という、透き通った結晶を見ている時のようなエクスタシーをぼくは感じる。アンコールワットの彫像のような澄みきった沈黙の世界と同じものを感じるのは不思議である。レンブラントの老人や婦人像、モディリアニの女性や子どもの像、ゴッホの花ざかりの田園やひまわりの絵、ゴヤのミルク売りの少女の絵、長谷川潔の草花や樹、コローの風景、日本の埴輪、ベートーヴェンやバッハ、などなど、人類の遺したすばらしい芸術作品は、数え上げればきりがない。これらには生と死が優しく同居しているように思える。
ところが、書はどうか。残念なことに書にはこのように感動する作品にはめったに出会ったことがない。なぜだろう。その理由についてここで深く分析するゆとりはない。ただ推測するに、今も昔も、偉ぶった人間によって上から文字というもの、また、文というものが、人びとに押しつけられてきたからではないかと想う。人びとの中から、大地の中から雑草のように生まれてきたものではないからではないだろうか。これではいけない。これではだめだ。書を愛する人びとよ、あなた方の生活の中から他の芸術と同じような暖かく豊かな書を創り出していってほしい。ぼくも不遜かもしれないが、他の芸術と肩を並べるほどの豊かな書を創り出したいと思っているのだ。生と死が優しく同居しているような。
いささかぼくたちの現実から遠のいた気もしないでもないから、ここでもっと身近な先輩の言葉を引用してみよう。
…やっぱり言葉を生んで行くのは、…毎日の生活だと思うんです。…自分の内部的行動から外部的な行動が生まれてくる。言葉もそういうわけで、自分の内側に何が言いたいかということがあって言葉が生じる。…心の中に自分が何を考えて何を言いたいのか…表現の場合も、それが何であるかということがつかめれば、それなりに言葉が出てくるわけで…(山本安英「表現の苦心」より)
…内容が豊かで、しかもそれを楽しく見て頂けるものを創り出すためには、優れた技術の獲得と、日常の生き方の深さとが混然と一体となって成長してゆくことが大切だと思います。…美しいものも必要ですが、美しさばかりでは本当の美は判りません。良さも悪さも、喜びも悲しみも、弱さも強さも判った末に、真の美しさや人間の喜びとなり力となるものが掴(つか)めるのだと思います。(山本安英「日々」より)
この山本安英のナイーブな言葉は、演劇や表現に対する愛や、人間に対する深い愛情からでたものには違いないが、それだけでなく、生の苦しみや、死の悲しみの裏打ちがあってはじめて強く我われの生を突き動かすものとなって表出されたのだとぼくは思う。現代の浮ついた世相の中で、ぼくのおもいはいささか重く暗くうけとられるかもしれないが、人生は明るく楽しく生き、そして静かにひっそりと死にたいとぼくは思っている。
樹も、いつかは老木となり朽ち果てるけれど、年輪は、一年一年新しく若若しい。ぼくは樹のように生き、そして朽ちられたらなあと念(おも)っている。
(2000年3月・会員つうしん第46号掲載)


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