母の肖像
- harunokasoilibrary
- 5月25日
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更新日:5月31日
母の様子がおかしくなったのは、いつ頃からだろうか。はっきりとはしないが、昨年の秋頃からかもしれない。
おかしくなったといえば、おかしくなかった人のようだが、母は、何年も前から要介護4の認定を受けているボケ老人である。おかしくなったというのは、何年も前からボケていたおかしな老母が、前とは違ったおかしな人になった、ということである。何が原因かは分からないが、人格に変化がおこったのである。
母は4年前に、ボケが進んで、施設に入ったのだが、数か月前から、私との会話の言葉が、ほとんど「バカ」と「キチガイ」だけになってしまったのである。
数か月前までは、電話で話したあと、話すといっても、ほとんど私が一方的にしゃべり、母は、「うん」とか「すん」とか言い、時には笑ったりしてくれただけの事ではあるが、そのような会話を、私が中国を歩いている間をのぞいて、ほぼ4年間毎日くり返したのである。話し終わって、「また電話します。ころばないように気をつけてね」と言えば、きまって「お願いします。ありがとう」と、やさしい声で答えてくれた。会話の中で「キチガイが来た」「バカが居る」と施設の職員や入園者のことやテレビに映っているタレントのことを罵(ののし)っていても、きまって、電話のあとには、やさしい声になって「ありがとう」と答えてくれたのである。その会話の「うん」も「すん」もなくなってきたのは、立春の頃からだったか。
月に一度は、施設のレストランで母と一緒に昼食をとってきたのであるが、すれちがう人に、ことごとく、「キチガイ」「バカ」と罵りだした。母にはすべての人間が心を許せない敵のように見えているようだ。
食事もほとんど食べなくなってしまったのは1月の末くらいからだろうか。一年をとおして平均42キロほどあった体重が2月中に39キロになり、3月末には36キロまでに減った。水分も日に300ミリリットルほどしか摂らなくなった。
3月半ば施設のドクターや相談員らと、骨と皮ばっかりになってきた母の今後について話し合いを持った。
ドクターは、身体のどこにも生命(いのち)にかかわるような異常はみられない、それにもかかわらず食べないということは、認知症の末期であり、おそらく寿命がきたのだ、との見解であった。
選択肢は三つ。大きな病院で点滴を受け延命するか、胃瘻(いろう)の手術をして延命するか、何もせず自然にまかすか、ということであった。自然のままだと、余命は一ヶ月から二ヶ月とのこと。
あまりにも急ではないか。あまりにも無情ではないか。痩(や)せこけ、皴(しわ)だらけ、しみだらけになって、今や、年老いても瑞瑞(みずみず)しかった時の母の姿はないけれど、私を見つめる、まぶたがたれて小さくなった眼は、やさしく、慈愛にあふれている。できる事なら、できる限り長く、このまなざしと一緒に生きていたい。これは叶(かな)わぬ夢なのか。
ドクターの言うには、点滴は、短期間ならまだしも、死が訪れるまでつづけるのは、痛くて痛くて、拷問に等しいとのこと。胃瘻の手術は、体力的に無理かもしれず、手術がうまくいっても、傷口が化膿(かのう)したりして、塗炭(とたん)の苦しみをあじわわなくてはならないかもしれないし、合併症で苦しんで死ぬことになるかもしれない。
何日かの猶予をもらい、妹たちとも相談して、私は自然にまかす決断をした。決断は間違っているかもしれないが、母の身体に、穴をあけたり、チューブを突っ込んだり、好きかってなことをされてはたまらない。私は現代の医療には愛を感じない。しかし、何とかして、一日でも長く生きていてほしい。どうしたら良いのだろう。今の私には分からない。
孤独に、気ままに、寂しく過ごしていた家を出て、施設に連行されて行く時も、生きるか死ぬかという瀬戸際の今も、自分ではなく、他人に運命を決められるとは、母らしくない。母らしくない。可哀そうな母よ。力ない母よ。私は力あるものを呪う。
3月末、看取(みと)りケアの話し合いを施設の方がたと持った。あとは死を待つだけだ。
私は一人で、母の描いた草花の絵をながめながら母と対話した。心が落ち着いた。丁寧に、愛情込めて、無心に描かれた草花、その描かれた線や色や形には、母の心や姿がそのまま残っている。悲しさや、寂しさが、時折込み上げてくるなかで、私は、母と二人で野の花をながめ、絵の話をして、この上ない楽しいひとときを過ごした。母の描いた絵のなかに、私の言葉を書き込む時は、何か新しい生命(いのち)が生まれてくるような歓びを感じた。母に言い残した言葉をすべて語りたかったが、どうにも言葉にならない。才能がないのだ。私は天を呪(のろ)う。
海棠(かいどう)が満開になり、桜のつぼみがほころんで、母はだんだん枯れてゆくのに、憎たらしい春は、生命(いのち)の息吹きをあちこちに吹きかけて行く。世界中が冬になり、母のところだけ春になれ!
私は、母と一秒でも一緒にいたいけれど、大作を書かねばならない。母が苦しまないように、不安にならないように、と祈りながら、一字一字、母と一緒に、母の光につつまれて、私は何千もの字を書きつづけた。字を書いていると、いつも母がそばにいるように感じる。けったいな私の字を面白そうにながめて微笑んでいる母が。
一日置きに施設に行き、母と昼食を一緒に食べている。もちろん母は、ほとんど何も食べないが、ワインなんかは、ほんの少しだけ、笑いながら飲んでくれた。
私の作品は生まれ、母は死に近づいてゆく。会うたびに骨と皮になってゆく母。今では、言葉もほとんどしゃべれないが、会うと、にっこり微笑んでくれるのは変わらない。
母の目は、レンブラントの母の肖像画と同じ目で、私をジーと見つめている。まるで不思議な生き物をながめるかのように。

母の手は、まだ温かくて、やわらかく、青い血管だらけで、肉がない。頬はこけ、首は筋だらけ、皮膚は落ちそうなくらい皴だらけ。くちびるは、だらしなく垂れ下がり、白髪が茫茫(ぼうぼう)と風になびいている。私にはそのすべてが美しく感じられる。
昼食が終わったら、車椅子を押しながら、施設の庭を散歩する。
桜は散ってしまった。新緑が目にまぶしくなってきた。むんむんする初夏がやってくる。やってこなくていいのにやってくる。私は初夏も呪う。
昨日の母は、何も話さず、ほとんどうつむいて、うつらうつらしていた。何にも興味がないようである。私が大きな声で「この花、可愛いねぇ」と言うと、ゆっくり顔を上げて、目を少し開き、花を見る。私の声も聞こえにくくなっているようだ。もう電話の声もほとんど聞けなくなってきた。
死が隣にやってきて、悲しさや寂しさのなかで、母の生がこんなに輝いてみえるとは、母の死を前にして、私は、ほんとうに書かねばならないものが見えてきた。親不孝な私には、寂しさや、後悔は限りなくあるけれど、作品を書いていれば、母がいつも隣に居るように思えて、私は、何か、あたたかいものに包まれて、作品を書く歓びを感じている。
とはいっても、いつ施設から訃報が届くかと、不安で眠れない日がつづいている。朝、施設に電話をして、母が起きてジュースを飲んでいると聞くと、いっぺんに元気になって、制作に集中し、休まずに働きつづけることが出来る。
これを書いている今もまだ制作はつづいている。母が生きている間になんとかこの難しい制作を終わりたいと思うが、このまま母の光のなかで、永遠に書きつづけられたら、どんなにか楽しいだろうな、とも思うのである。
明日はまた母に会いに行く日だ。
「死に対する新しい態度がなければ、生について、実際には何も言えないように思われる」(エリアス・カネッティ)
(2014年4月・会員つうしん第131号掲載)

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