みえぬ糸
- harunokasoilibrary
- 5月31日
- 読了時間: 5分

「天園(てんえん)は行った?」
「いえ、まだ行ったことがありません。」
「行ってみる?」
「そうですねぇ・・・・・・」
「好いところよ、行ってみたら。」
「じゃ、行ってみるか。」
「建長寺(けんちょうじ)から入れば行けますよ。」
「一緒に行きますか?」
「昔は何度も行ったけれど、もう無理ねぇ。」
「そうですか、それじゃ、ひとりで行ってくるか。」
天園という存在も知らなかった私は、もちろん、天園に行くことは予定していなかった。
鎌倉に住んでいる伯母に会いに来た目的は、母の納骨のことと、伯母の終活の相談にのることであった。時間をたっぷりとって、伯母の望みをじっくり聴こうと思い、一週間ほど滞在することにした。
冒頭の会話は、神奈川の近代文学館で伯母と待ち合わせて、展覧会を観たなかに、川端康成の小説『山の音』についての展示があった、その展示を見た後の伯母と私の会話である。川端康成は鎌倉に住み、戦後数年経ってから、この小説を書き始めたという。戦後日本文学の最高峰に位するもの、とも言われる作品である。
鎌倉に着いて数日後、鶴岡八幡宮(つるおかはちまんぐう)の近くにある、川喜多映画記念館に、特別展(『鎌倉の映画人 監督小津安二郎(おづやすじろう)と俳優笠智衆』)を観に行く予定をしていたので、革靴しかなかったが、北鎌倉の伯母の家から、歩いて、建長寺を抜け、天園を通り、映画記念館まで行くことに決め、昼過ぎに出発した。
天気は快晴で、暑くも寒くもなく、快適であった。
40年ほど前に、伯母が私の祖母と一緒に、鎌倉に住むようになってから、私は何度も鎌倉に遊んだが、初めは、有名な観光地を一通り歩いたけれど、だんだん人混みに疲れ、人を避けるように、人のあまり来ない所を散策するようになり、伯母の家の近くにある、円覚寺も明月院も建長寺もついに行かずじまいになってしまっていた。そのこともあって、この機会に、3時間ほどかけて、建長寺の境内を抜け、記念館まで歩いてみようと思ったのである。

建長寺の境内で、思いがけないものを見た。上田桑鳩(そうきゅう)筆の「比田井天来(ひだいてんらい)先生碑」である。「雁塔聖教序(がんとうしょうぎょうじょ)」風の端正な書であった。手前にある小さな石柱の書も桑鳩の筆で、これは「孟法師碑(もうほうしひ)」風で書かれている。いずれも、楮遂良の書である。天来が大正5年から2年余り、建長寺の正統庵に独居して、古典の研究に没頭し、ここで新しい用筆法を発見した、という事をすっかり忘れていた。私にはどうでも良いことだが、比田井家の墓もここにあるらしい。

天来先生碑をあとにして、しばらく行くと、遠目にも見覚えのある石碑に驚いた。蘇州(そしゅう)の寒山寺(かんざんじ)で見た兪樾(ゆえつ)の「楓橋夜泊(ふうきょうやはく)」の石碑と、羅聘(らへい)の「寒山拾得(かんざんじっとく)」の石碑があったのである。
建長寺と同じ、臨済宗の寺である寒山寺から寄贈されたものらしい。三度も訪れたことのある蘇州と、寒山寺と、寒山拾得と出会った蘇州駅の思い出が蘇えり、心が震えるようであった。
半僧坊(はんそうぼう)を抜ける天園への道は、鎌倉アルプスと呼ばれる、標高150メートルほどの山々が、鎌倉の街を取り巻くハイキングコースだが、かつて僧が修業した山道らし

く、上り下りの急な斜面もあった。最高峰の大平山の頂上辺りには、鎌倉市街や相模湾や富士山が見える、展望台や峠の茶屋があるのだが、あいにく富士を見ることは出来なかった。途中、何人かのハイカーとすれ違っただけで、山道は静寂であった。しかし、山の音は聞こえなかった。山の音は、死を告げる音らしい。まだ、私は死なないようである。もしかしたら、幽かな山の音に気づかなかったのかも知れない。何やかや雑念があり、道に迷わないように、辺りに気を配っていたから。
小説『山の音』は、良寛の「天上大風(てんじょうおおかぜ)」と蕪村の句「老いが恋忘れんとすればしぐれかな」の間を行き来する主人公の心境を描いたものという。
川端康成によると、良寛は「日本古来の悲しみ」を体現し、日本人の真髄である「もののあはれ」を表した詩人らしい。良寛が、形見に遺すものとして詠った、春は花、夏ほととぎす、秋はもみぢ葉、さらに付け足せば、秋の月と冬は雪。
春爛漫だが、花は散る、初夏のころ、鎌倉で、「あれ、ほととぎすよ」と、伯母におしえられた、太いが、どこか、もの哀しい鳴き声、秋は紅葉、火のような美しさと同居する、老いの侘びしさ、澄んだ月と、清浄な白い雪。
日本の四季には、老いと死の哀しみが、優しく、寂しく、寄り添っているようである。日本の美とは悲しいものなのだろうか。
さらに山を下ると、しばらくして、獅子舞方面と瑞泉寺方面の分かれ道に出た、険しく狭い道を瑞泉寺の方へと下って行った。誰にも会わなかった。寂しい道である。
夢幻界のような天園の狭い山道から、急にアスファルトの道に出る、と横に瑞泉寺の門が見えた。瑞泉寺は夢窓疎石が創建した花の寺で、池泉式の庭園があるのだが、日も傾いてきたので、寄らずに先を急ぐことにした。川端康成が『山の音』執筆時に使ったとされる机のある報国寺も近くだが、人に交じって見る気もしなかった。長いアスファルトの道の人混みの中を歩き、川喜多映画記念館にたどり着いた。

映画「山の音」は、昭和29年(1954年)原節子・山村聡主演で制作された。原節子が95歳で亡くなった事を私が知ったのは、京都に帰って来てからである。私が歩いた鎌倉のどこかで、彼女は、一人しずかに、寂しく暮らし、旅立っていったのであった。
小町通を抜け、鎌倉駅前の魚屋で、伯母に頼まれた秋刀魚(さんま)と鯵(あじ)を、パン屋でライ麦パンを買い、横須賀線(よこすかせん)で帰路についた。
伯母や母の形見は、私を中国や日本の美につないでくれた、目に見えぬ、しなやかで、透明な、やわらかい糸である。
(2015年12月・会員つうしん第141号掲載)

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