花の心
- harunokasoilibrary
- 3月6日
- 読了時間: 3分
更新日:6月1日
古い梅の木に新しい花が咲き、浅い香りがまた新しい。昔からそこにある古い樹々に楽しげに初々しい芽がふくらむ。深い眠りのままの枯野を、ビロードのような新しい光がなでていく。大地は新しい光にうながされ、寒さに閉ざされたその窓を開け放つ。雲は、棉のようにふっくらとふくらんで、一段と深みを増した青空をゆったりと漂っている。水は昨日までのトゲトゲそさをなくして、柔らかくキラキラと輝いている。冬の厳しさに抑圧され歪んだ私の心も自然の新しい気配と息吹に生気を取り戻せそうな気分にもなる。おかしなものだ。毎年繰り返される春であるのに、いつも新しい。
ところで、世阿弥(ぜあみ)の「花伝(かでん)第七別紙(べっし)の口伝(くでん)」からひとくさり。
「そもそも花といふに、万木千草において、四季折節(をりふし)に咲くものなれば、その時を得て珍しきゆゑに、もてあそぶなり。申楽も、人の心に珍しきと知るところ、すなわち面白き心なり。花と面白きと珍しきと、これ三つは同じ心なり。いづれの花か散らで残るべき。散るゆゑによりて咲くころあれば、珍しきなり。能も、住するところなきを、まづ花と知るべし。」
さらにひとくさり。
「花と申すも、よろづの草木(くさき)において、いづれか四季折節の時の花のほかに、珍しき花のあるべき。(略)花と申すも去年(こぞ)咲きし種なり。能も、もと見し風体(ふうてい)なれども、物数(ものかず)を窮めぬれば、その数を尽くすほど久し。久しくて見れば、また珍しきなり。(略)ただ花は、見る人の心に珍しきが花なり。(略)物数を尽くして、工夫を得て、珍しき感を心得るが花なり。『花は心、種はわざ』(略)。」
奥深い言葉であるが、かいつまんで言えば、「『花』と『面白き』と『珍しき』とは同じ心である。花は散るからこそふたたび咲いたとき新しく珍しいのである。能も観客が珍しいと感じるから面白いと感じるのである。一つ所に停滞していては花にならない。」といったところか。もちろん珍しい、面白いといっても奇を衒うことではない。世阿弥の言葉は、花のある能、つまり魅力ある能のこと、言いかえれば、魅力ある作品の本質を花に喩えて伝えているのであろう。また「花は心、種はわざ」は花は工夫・公案、つまり心によって咲く、種は基本技術(わざ)のことのようだ。花のある作品を書くには、基礎を十分に固めることを忘れてはいけない。その上で内面的な心の修業をしなければ珍しき花は咲かないということだろう。花は去年咲いた種から生まれたものである。この種というのが基本技術のことであろう。種がなければ面白い花は咲かないのである。去年までに身につけた修業が因になって今年の花が咲くのである。修練のないところ決して花は咲かないのである。私には足もとにもおよばない世阿弥ではあるが、600年も昔の世阿弥を通して、自然から真(まこと)の花とは何かを、学びたいと思う。珍しいは、愛(め)づ、また賞(めづ)るにも通じている。新しいものは珍しいから面白く、だから人間はそれを愛し、賞(め)でるのである。
古木に新しい花が咲く。古い種から新しい花が咲く。花は無心に咲く。花は、ただそこに在るだけである。自然は無心だから美しいのだ。有心の私は、無心の花を師として、いつの日か花になりたいと夢想している。
(2001年3月・会員つうしん第52号掲載)


コメント