知と情
- harunokasoilibrary
- 3月1日
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更新日:6月1日
とにかく、我武者羅(がむしゃら)に書きまくれば、何か作品らしき物ができると考えるのは、安易にすぎると私は思います。安易な考えからは、たいした物は何一つ生まれないと思います。感情にまかせて、なぐり書きしても、偶然は、味方することはないと思います。やはり創作とか制作とかいうものは、まじめな探求の時間といいますか、地道な努力がいるものだと思います。何枚書いても何枚書いても進歩とか、変化といいますか、変わり映えしない作品しか書けないように感じられても焦らないで時を待つことも必要でしょう。ちょうど、卵が突然孵化するように見えても実は、親の努力や、また自然な時の流れという蓄積が必要なように、作品も自然に成るのが本当のように私は思います。人工孵化のごとく一から十まで知的に計算して意識的に予定どおりに作ることには、何か、不自然な無理があるようにも思います。そかし創作が完全に無作為であるというのも嘘でしょう。作為的に知的に工夫し考えぬかねば良い作品はできないとも思います。
それには、方法を持たねばならないと思います。チンパンジーやガラパゴスのフィンチという小鳥は、食べ物である虫を獲るために小枝を加工します。彼等自ら道具を工夫して獲っているようです。虫が出てくるのをよだれをたらして待っているわけではありません。私たちも彼等に学んで方法を積極的に考えなければいけないと思います。あなたが表現したい内容が獲物です。その獲物を獲るための、最良の方法は何か、知的に考えぬかねばならないと思います。いろいろ勉強して創作の工夫をしなければ、しっかりしたものは作れないでしょう。
私たちは過去の達成から多くのことを学ぶことができます。知的に学ばねばならないと私は考えます。知識だけで芸術ができるわけではありませんが、知識も大切だと思います。過去の歴史(経験)は、私たちに自己の出自を発見させることでしょう。しかし過去にばかり目をやるなら、伝統という美名に雁字搦(がんじがらめ)に縛られて身動きがとれなくなってしまうかもしれません。これは死を意味します。私たちは過去に縛られて、輝く現在(いま)を失うわけにはいきません。過去に意味があるとするなら、それによって現在(いま)が輝くときだけではないでしょうか。現在(いま)活き活きと輝くことを妨げるような過去は、私たちには無用なものだと思います。どんな悲劇的な過去であっても、現在の私たちを生気あるものにする悲劇ならその過去は私たちにとって意味のあるものであると私は考えます。未来が来るかどうかは、私には分かりませんが、とにかく、現在を精一杯輝く以外に幸福な未来を呼ぶことは不可能なことのように思います。単純素朴なことですけれど。
ここで伝統について述べるゆとりはありませんが、伝統とは、制約や規範を順守し保守することではなく、反対に規制から自由になろうとする人間の営為(いとなみ)のことだと私は思っています。学ぶということは、矛盾です。学ぶことは規範や制約を身につけることだともいえますし、そして生気あるものは、その制約から自由になる過程でしか発現しないように思えるからです。私たちは過去の達成によって教育され人間に成っていくのですから、多くの豊かで深い人類の知識や知恵を、できるだけ学ぶほうがよいように思います。
しかし制約から自由になろうとする人間の営為(いとなみ)は「知」だけからは生まれてこないように思います。それには「情」の働きがより大きいように私には思えます。大いなる「情」が出現したとき、人類は、新たな美を発見しまたそれを多くの人が共有する喜びを持つ可能性がでてくるのだと思います。大いなる「情」はどのようにして出現するのか、私には正しくは分かりませんけれど、書しかかけない、また絵しかかけないような精神からは、決して生まれてくるとは思えません。現在の世界で起きている全ての事柄に興味を持ち、全人類そして自然と共に呼吸をして、全ての人間や自然が現在抱えている問題を共に悩み、かつ解決していこうと考え、感じる人間にのみ、この大いなる「情」は発現するように私は思います。この大いなる「情」が大いなる「知」を誘発させるのではないでしょうか。
本当の人類の伝統(制約から自由になろうとする人間の生きた姿)を守るためには、私たちは、「知」と「情」の絶妙なバランスを考えねばならないと思うのです。私たちは過去の成果である技法をしっかり学ぶ過程でも「情」を忘れてはいけないし、激情にかられる瞬間にも「知」を忘れてはいけないと思うのです。「知」と「情」のバランスをとることはたいへん難しいことです。しかし、人間も含めた自然というものは、カオスの中にコスモスがあり、コスモスの中にカオスがあるもので、私がとやかく言わなくても、自然と、「知」と「情」はからみあって、ダイナミックな世界を形づくっています。だから、自然のままでいいのですけれど、ただ「知」と「情」を意識したほうが、人間は、もっと美しい未来を、創っていけると思うのです。
〈補足〉
「知」と「情」なんてものは存在しない。正しくは「存在するが存在しない」といったほうがよいだろうか。在るのは生きた人間である。「知」というもの「情」というものが在るわけではない。それは観念にすぎない。分けることのできない存在である人間という生命体が在るだけだ。
否、正しくは「人間」などというものも存在しない。在るのは個としての生命体である。個人としての具体的な生命体である。それは人体模型のごとく「知」の部分と「情」の部分を組み合わせてできているわけではないであろう。生命体を機械のように考え、部品の寄せ集めで組み立てられているかのようなとらえ方には、何か恐ろしい間違いがあるのではなかろうか。
あえて、常識的(分析的)に「知」と「情」が人間の中に在ると考えてみて、大切なことは、そのバランスをとることだと私は述べたが、その意味は、「知」と「情」の均衡を図ることではなくて、グルグルと回転する地球や太陽のように静止することなく運動し続ける生きた実在の姿を直感することである。生きたバランスのことである。静止し死んでしまった「知」と「情」のバランスではない。
「知」と「情」が融合した未分化の生命そのものの姿を想像しなければならない。
(2001年1月・会員つうしん第51号掲載)


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