想い出
- harunokasoilibrary
- 4月9日
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更新日:6月1日

私は海棠(かいどう)の花を見ると、かならず、涙が込み上げてくる。それは、今は亡き祖母のことを思い出すからである。春が過ぎ、いつのまにか、その花のことは忘れてしまうが、また新しい春が来て、その花を目にすると、きまって、涙がうるんでくる。
海棠の花は、私の生まれた家の、庭の角に咲いていた。その家は田舎にあったから、家の周囲には田畑が多く、人家はまばらであった。それで、遠くからでも庭の海棠の濃いピンクのかたまりが見えた。
私は幼少の頃、祖母を残してこの家を出た。祖母は私をたいそう可愛がってくれたから、引き裂かれる悲しみは譬(たと)えようがないほどであった。祖母と遠く離れて暮らすようになってからも、私はいつも祖母のことを想い出していた。
祖母は引き揚げ者で、着の身着の儘(まま)、夫とたくさんの子供たちと一緒に、夫の実家に転げ込んで来た。そこには小さな田畑があった。祖母は農民ではなかったが、みようみまねで野良仕事を覚えたのであろう。小さかった私には、女優のように綺麗な祖母が畑仕事をしている姿は、自然で、とても力強く、生きる喜びそのものであった。私はいつもお腹を空かしていたから、祖母と一緒に肥(こえ)をやり、受粉して育てた畑の野菜や庭に生っていた柿や無花果、ビワ、グミの果実(み)がご馳走(ちそう)であった。食卓にはたまに、家の前の小川の田螺(たにし)や近くの海で捕れるムツゴロウもあった。
祖母の想い出の周りにはいつも花や小さな動物たちがいた。カンナやキンセンカ、ヤグルマギク、鳳仙花(ほうせんか)、ノウゼンカヅラ、ナデシコ、鉄砲ユリや白い蜜柑の花。納屋には青大将が棲み、庭の石垣の角には何匹もの蛇がとぐろを巻いて日向(ひなた)ぼっこをしていた。イタチは鶏やウサギを狙って忍者のように走り、百舌鳥(もず)はカエルの死体を木の枝に刺していた。女郎蜘蛛(じょろうくも)のなんと美しかったことか。井戸端の万年青(おもと)の陰で大きなはさみの蟹たちがプクプク語り合っていた。
祖母はいつも歌っていた。祖母の歌声はなんとも心地よくて、私はいつも聞き惚れていた。蜜柑の花や桑の実や赤とんぼを見ると、きっと、祖母の歌声がよみがえってくる。ゆるやかな歌の調べに合わせるかのように、家の前を黒牛や赤牛がゆっくりと通りすぎて往く。
優しかった祖母の想い出の周りには、懐かしい匂いがあった。太陽の温もりをいっぱい含んだ稲わらや夕暮れの籾殻(もみがら)を焼く匂い、畑や田圃(たんぼ)の土の匂い、鶏にやるためにきざんだ草の匂い、家の前の小川の魚や水草の匂い、そして、いつも清潔な割烹着(かっぽうぎ)を着た祖母の膝の上の匂い、それらがみんな一つの匂いになって祖母の周りにあった。
幼い私は、どうしても祖母に会いたくて何度か田舎に帰った。田舎には、いつも夜汽車に乗り、太陽が高く昇ったころ着いた。それは、幼い私には、異国のように遠く、長い道のりであったけれど、祖母に会える嬉しさで疲れることはなかった。汽車の規則正しいレールの音、車窓に現れては飛ぶように消えていく見知らぬ街の灯りや、薄暗がりの中のレンゲ畑に、魂を奪われたように見入っていた。駅に着き、タクシーに乗って、長い田舎道を土ぼこりをあげながら走って行くと、遠くのほうにあの海棠の濃いピンクのかたまりが見えてくる。そこには、懐かしい、祖母との幸せな世界があるのだった。
幼い頃の私は、祖母の想い出ではなく、生きた祖母に、ただ一途に会いたいと思っただけであった。それは、記憶の底に、心地よい、懐かしい想い出があったからかも知れないが、幼い私は、それに気づいてはいなかった。青年になった頃始めて、幼かった頃の私と祖母と、祖母の周りにあった小さな世界を、烈しい郷愁の想いで見つめたように思う。そして、祖母の新しい姿をもう二度と見ることが出来なくなってから、海棠の花を見ると、涙がうるむようになったのである。
人間(ひと)は、理想を夢見、未来(あした)に希望をもち、懐かしい想い出に寂しさと喜びを感じながら、日常を生きている。
朝はいつも新しく、それは世界中の誰一人まだ経験したことのない朝なのに、人間(ひと)の心は、過去(きのう)を引きずり、未来(あした)のことでいっぱいで、朝は未来(あした)への通過点にすぎない。
すべてのものは動き続けているのに、私の心は、甘く美しい想い出に止(とど)まっている。折に触れ、祖母や、過ぎ去った昔のことを想い出している。若かった祖母や母や、幼く可愛かったわが子や自分のことを愛(いと)おしんでいる。そして、すべてのものが移ろっていくことを寂しく思っている。それらは、過ぎ去った快楽の記憶である。快楽へのノスタルジーであろう。そして快楽のあるところ、必ず、それを失うことへの恐れと、失った悲しみがあるのだ。
喜び悲しんでいるのは思考である。それは、意識と無意識、さらに、もっと底にある意識まで含んだ、底知れない意識である。意識は経験である。そして経験は記憶されたものである。人間(ひと)は、その記憶を透して物事を見る。空っぽの心では見ないのである。昔もらった一杯の水に、一輪の花に、その、人間(ひと)の温かさに生かされている自分を感じ、傷つけられ、傷つけた忌わしい記憶に苦しみながら世界を見るのである。
想い出は記憶である。心の中にあるだけで、今はもうないものである。それは実在するものではない。
実在するものはすべて動き続けている、それは、常にすべてが新しいということだ。新しいということは自由だということである。それは何の束縛もないということだ。しかし人間(ひと)は、記憶という束縛を透してしか、ものを見ないのである。記憶では新しいものは決して見えないのに、なぜ、人間(ひと)は、過ぎ去ったことにいつまでもこだわり、すべてを記憶しようとするのであろうか? それは永久に、喜びだけでなく悲しみや苦しみも忘れないようにするためなのであろうか?
肉体は、機械のように古くなって朽ちていく物であるけれど、何の束縛もない空っぽの心は、常に若く、ほんとうに新しいものを理解できるのである。しかし、人間(ひと)は、ほんとうに新しいものなど見たくないのかもしれない。

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