初春に
- harunokasoilibrary
- 3月3日
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更新日:6月1日
親はこどもに何をしてやれるのだろうか。何ができるのか、何をなすべきなのか、何をしてはいけないのか。‥‥
こどもが自分の天分を発見して、自由な市民として自己の足で立っていけるように育てるのが教育の目的だと私は思う。教育の目的は、学校でも、家庭でも同じことだろう。学校の都合や、企業の都合なんかで、都合のいい人間に飼育されたんでは親としてたまらない。もちろん親の都合のいい人間でもこまる。と私は思うけれど、世の多くの親達はそのほうがよいのかもしれない。
現在のこども達にとって、20世紀の先輩達は、良き教師とはとてもいえないだろう。やってきたことはほとんどが、否定されてしかるべきことばかりだといえないか。20世紀最後の10年間だけでも200万人のこどもが戦争の犠牲になっているという。その前の戦争でもそのまた前の戦争でも、おとな達は人を殺すことを多言無言で教えてきたのではないのか。科学や技術はたしかに進歩してきた。人類の未来は、進歩の果てにバラ色の幸福が約束されているかのように過去も現在もいいつづけている者がいる。科学技術の進歩はその影に多くの弱者の犠牲をともなったことを忘れてはいけない。公害や交通事故でどれだけの人びとが苦しんでいるのだろうか。これだけの犠牲をはらっても人間にとって、進歩は必要なものなのだろうか。私達はただ幸福にくらしたいだけなのだ。進歩は本当に必要なものなのか。ただ、愛する人達と、人間らしく平和に生活することに科学の進歩は必要なのか。人を愛し、生命を愛し、自然とともに生活していくことに進歩がどれほどの意味があるというのか。
とはいっても私は科学を否定するだけではない、むしろ少年の頃から科学に夢をもっている一人である。現在まで科学によって多くの人びとが救われてきたことも事実だろう。さらに21世紀には、様ざまな人類の不幸が科学によって克服されることも間違いなかろう。しかし人類は科学の進歩によっておこされた20世紀の不幸な経験を忘れるかもしれない。戦争がその最たるものだ。その戦争がおこるたびに反戦平和の声が地球のあちこちに飛びかったが、さらに残酷な戦争がくり返された。何度反戦平和の声をあげても戦争はくり返されたのに、反戦平和の声はあげられた。(声をあげるしか仕方がないのかもしれないが)あやまちは二度とくり返しませんという誓いの言葉のすぐ後から、人間を不幸にする新しいあやまちがくり返された。我われの言葉はむなしいものだ。我われ人間は原点に立ちかえらなければならないのではないだろうか。それでは原点とは何か。原点といえばずーっと過去、歴史の始まりの頃、我われのルーツにまでさかのぼることだとあなたは考えるだろう。それはそうだろうけれど、少し視点を変えて、過去ではなく未来からやってくるのではないかと考えてみたらどうだろうか。
我われは、科学技術によって確かに進歩してきただろう。生物は確かに進歩してきたのだろう。1+1は2,2+1は3のように積み上げられてきたことを我われは進歩、進化と考えて、進歩、進化することが人間の幸福に直結すると楽天的に信じてきたのではなかろうか。私は、私よりほとんど経験の量ではおよびもしないこどもの言葉に驚くことがある。彼等は、私の想像もつかない未来からの使者ではないのか。彼等の貴重な言葉をおとな達は踏みにじり、使い古された死んだ経験を、よかれと考えて子ども達におしつけているのではないのか。こども達にとって、平和はあたりまえのこと、木を植えたり花を植えたりすることはあたりまえのこと、好きな人と仲よくして、いろんなことを覚え、いろんなことを考え、礼儀作法なんてどうでもよくて(これはちょっといいすぎか)、手足をのばしておもいっきり遊び、好きなものをいっぱい食べて、暖かいところでぐっすり眠って夢を見る、ただそれだけ。こどもたちに必要なのは、安心できる住家があって、愛する人達と一緒にくらし、生き物みんなといつまでも平和に暮らす、ただそれだけのこと、そんなあたりまえのことだ。
日本一になるとか世界一になるとか、そんな馬鹿なことは、おとなが教えこんだたわごとだ。おまえよりこいつのほうが上だ下だとか、誰よりできるできないとか、そんなことはおとなが教えこんだ馬鹿げたことだ。旧世界のことなどこども達には何の興味もないことだろう。我われ旧世界の人間は未来からの使者、こども達を見ならったほうがよいのではないのか。こども達の声を聞いて、こども達の夢を実現するために力をかすことが一番よいことなのではないのか。親にできることは、こどもが自分の天分を見つけ出して一人で立っていけるようになるまで育てること。そして昔はこどもだった親もこどものころの夢を思い出してこどもからこどもの未来の夢を学ぶことしかないのではなかろうか。親がしてはいけないことは、自分と同じ過去のコピーを作ろうとすることだ。子どもは我われ旧世界の人間には想像もつかない未来を創っていくことだろう。
歴史という重みでこども達の足をひっぱらないことだ。我われ旧世界の人間は己の信じるように生きるしかないのだが、こども達にそれを教え込もうとするのは愚かなことだと思う。こども達は、自分の目と耳で生きるだろう。そして自分にとってそれがよいことだと思えば学び、自己の中に同化していくだけのことだ。
私は愚かなおとなどもからこども達を守らなければならない。しかしそれもよけいなことなのかもしれない。こども達を信じることがすべてなのかもしれない。
(2000年1月・会員つうしん第45号掲載)


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