雑感
- harunokasoilibrary
- 3月8日
- 読了時間: 4分
更新日:6月1日
ぼくの机の上には絵はがきが一枚飾ってある。小さなガラスの絵はがき立てに立てている。長谷川潔の油絵である。野の花が描いてある。仕事の前や最中も何もしないでぼんやりしているときも、ときどき、いつのまにかその絵をながめてボーとしているときがある。その作品がそこに在るというだけでぼくの心は何か安らかな幸せな気持ちになる。普通には浄化作用というのかカタルシスというのかそんな感じである。本物など買えるわけもないからもちろんそれは複製写真だが、お金で買えるものなら、そしてお金があったらいくら高くてもいいから手に入れて毎日ながめていたいと思う。
書展などでぼくの作品を見て感動しただの気にいっただのとたまに耳にするが、そんな言葉をぼくは信じていない。お金がないなら仕方がないが、本当に感動した作品というものは全てを売り払ってでも手許に置きたいと思うほどのものである。それぐらいのものである。有名人の作品だからとか、いずれ値が上がる人だから買っときなさいとか、どうでもよい嘘を言うお金の奴隷のような商人どもにそそのかされて買うようなものではない。それが在ることで自分は人間として生きていける、生きる喜びを感じることが出来る、それは、なくてはならない世界で何ものにもかえられない人間の証明であり生きる意味でもあるのだ。作品とはそれほどのものなのだ。そんなものがどこに在る。ヘラヘラと感動したなどと簡単に言わないことだ。本当の作品世界というものはお金にはまったく関係がない、純粋な、美しい世界なのだ。
こんなえらそうなことをいいながらぼくは作品を売っている。売るために書いているわけではないが売っている。あまり売れないが売っている。高いといえば高いし、安いといえば安すぎる。めしも食わねばならないし、紙も墨も表具代もいくらあっても足りないくらいだから、売りたくはないが売っているのだ。しかし売れればうれしい。買ってもらって大事大事にしてもらえるならこんなうれしいことはない。ぼくは汚れているのかもしれない。できることなら、たったひとりで絵や書をかいて、かすみを食って生きたいのだが、そんなに偉くもないから、天は、ぼくをこの地上に縛りつけて汚れた生活をするしか、生きるすべをあたえたくれないのだろう。それで生きられるなら、まだ幸福どころか、もったいないぐらい幸福だけど、書きたくても描きたくても、めしを食うことさえままならぬどん底に、ぼくとぼくの家族を転落させるのかもしれない。無能なのだから仕方ないのかもしれないが、何か腹がたつ。天を恨んでいるのではない、無能なおのれに腹を立てているのだ。しかしまだ倒れてはいない。
それからぼくは、書を指導しているし、手本も書いている。それで、お金をもらっている。めしを食って、それと養っているともいいにくいほどだが家族のめし代もいくらかはその頂いたお金でまかなっている。書を指導するのはまだいいとしても手本を書くのはどうか。世の書家先生の多くは、手本を書いて得意がっているようだが、また習っている人達も、それがあたりまえと思っているようだが、書を習うとか学ぶこととはどういうことなのか考えてみたことがあるのだろうか。簡単にいえば、ひとりひとりその人らしい個性的な字を書けるようになるために習っているのではないのか。手本書きの書家先生の、くせ字をまねて段だの級だの賞だのもらうためではないだろう。自分のくせ字を神の創りたもうた文字のごとく習う人人に押しつけて、上手だの下手だのと判定して、悟りすましたり、上等ぶったり下等ぶったりして人のため人のためといいながら、自分のためにお金をごっそりもうけている卑しい欺瞞書家先生を一日も早く見破って本当の書の学習をしたほうがよい。
すこし弁解がましいことをいうと、ぼくの書いている手本はあくまで習字手本であって、書の入り口に到るための最小限の手本なのだ。これをコチコチに考えすぎてもらっては困る。またこれだけやれば書は終了したなどと思ってもらっても困る。小中学生でも十分マスターできる習字の手本なのだ。とっかかりがないと困るのでこれぐらいはなければと考えて書いているにすぎないのだ。これは許されるだろうか。
(1999年1月・会員つうしん第38号掲載)


コメント