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澄耳

  • harunokasoilibrary
  • 4月17日
  • 読了時間: 4分

更新日:6月1日

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 雨かなと思ったのは、轆轤場(ろくろば)の天窓を覆っている半透明の波板(なみいた)の上で跳ねていた雀たちのあし音であった。波板に落ちた木の実でもついばんでいたのであろうか。パラパラパラと続いては止み、またパラパラパラときた。木枯らしと一緒に冷たい雨がやって来たかと思い、天窓を見上げたら、いくつもの小鳥のあしが忙しそうにあちこち点滅していたのだ。楽しい訪問者たちに私は独り微笑んだ。木の実がなくなったのであろうか、小鳥たちはすぐに飛び去っていった。しばらくしてまたパラパラときた。こんどは、いつまでもパラパラやっているので変に思い見上げてみると雀の足跡はなく雨が降っていた。

 

 我家の玄関の扉は、奇妙にねじれた哀れな音がする。それは、希望も夢もない、不安な貧しい生活の音である。人生を嘲笑(あざわら)っているような不敵な音である。くたびれて、昇天したがっている音である。

 

 母が入れてくれるお茶の音は、軽やかで温かい。それはわだかまりのない音である。母の愛用の急須からカチャギュウーングルグルグルヒューンギューンピーンコロコロコログルグルグルゴーンヒューンギリギリギリビュルビュルビュルトロトロトログルグルグルヒューントロトロトロヒューンコロコロコロトロンロンと私の湯のみに注がれる音は慈しみの音がする。今日まで何百何千回と入れてもらったお茶であるが、今はじめてその音が聞こえたのである。なんと不可思議な音のすることか。また、なんと楽しげな音だろう。

 身を引き裂くような苦悩の時も、信じるものに裏切られ、すべてに失望し、寄る辺なく悲嘆の底に沈んでいた時も、言葉もなく、期待もなく、ただ温かいお茶を入れてくれた母の音である。私はこのお茶を飲んで、今日まで楽しく元気に生きてこられた事に気がついた。このような不思議な音は、この世界に二つとないであろう。無心に注がれる慈しみのお茶の音は、何十億光年の隅ずみまで、静かに響きわたっているように想われる。

 

 母の歩く姿はギクシャクして頼りなく、今にも転びそうであるけれど、その足音は、サラサラスルスルカラカラカラと風に舞う落ち葉のように軽やかだ。ほとんど聞こえないくらいである。肉体の重さというものが無いのであろうか。

 耳を澄ませばその軽い足音のなんと優しく寂しいことか。そして、なんと重いことだろう。この宇宙のすべてを軽がると支え、静かに微笑みながら私を見つめ、軽やかな音で歩いている。その足音は生命の根っこにつながっている音である。生命を支える音である。生命そのものである。これ以上重いものも軽いものもこの世界にはない。その足音は心の音である。心が歩く音である。慈しみ育む音である。苦しい生活を経てたどりついた音である。誰にも出せない母だけの音である。バッハもベートーベンもおよばない音である。そして、私にだけしか聞こえない音である。


 私の前に、焼きあがって窯から出したばかりの壷がある。ときおりチリーンと涼しい音がする。釉薬と素地の収縮率の違いで、壷にひびができる時の音らしい。しかし、それはそれだけの事であろうか。私には思いも及ばない深い世界の必然が、偶然のように見える亀裂をその壷に作っているのかもしれないのだ。

 音は物理現象に過ぎないと、あなたは思うかも知れないが、どの音にも深い意味があるのではないだろうか。音は、私たちの知らない遠い世界から、今たどり着いたように私には思えるのである。一粒の水滴が水面に落ち、音の波紋が世界に広がっていく。その音は私たちの心の底知れぬ深みからやって来たのかも知れない。

 

 耳を澄ませば命の響が聞こえるであろう。本のページをめくる音。ペンを置く音。紙の上を削る鉛筆や筆の音。墨を磨る音。

 生活の中の、心地よい音も耳障りな音も、変化してやまない人の心の音である。自然界には、不思議な謎に満ちた音がある。それらには、私たちのまだ知らない深い意味があるに違いない。

 音は無限にある。心を閑(しずか)にして耳を澄ましてみると、いろいろな音が聞こえてくる。そして、同じ音は一つもない。

 

 音だけではない、色も形も線も同じものは一つもない。注意深い心だけがそのほんとうの意味と真理を感受することが出来るであろう。それは、途方もなく豊かで温かい世界に気づくことである。混乱したこの世界で私たちはほんとうの愛に気づくことが出来るのであろうか。

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(2006年12月・会員つうしん第87号掲載) 

 

 


                              (2006年12月・会員つうしん第87号掲載)

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