断章
- harunokasoilibrary
- 3月24日
- 読了時間: 7分
更新日:6月1日
ちっぽけな私だってナノの世界から見れば巨大な宇宙ではないか。
いったい、大きい小さいとはどういうことだ。
世界は広い。広すぎて見えない。
見えないから、人間は、想像力たくましく、かってな空想をするのだ。
「書」がわかるから書くのではない。わからないから書くのだ。
「書」とは、こうだなんてわかったようなことを言う奴は信用するな。
美しい心の人でないと、美しい作品は作れないと思う。
美しい心の人になりたいと思うけれど、私には無理のようだ。
それでも私は作りつづける。
美しくなろうとするのは苦しいけれど、やはり美しいものが私は好きだ。
美しいものばかり見つめて死にたいと思う。
虫たちの世界、花花の世界、鳥たちの世界、どんな世界にも生きるための戦いがある。
戦いや競争のない世界を夢みるのはまちがいなのだろうか。
極みを書きたい。悲しみの極みを、悦びの極みを。
こうして屈託していても、この星の隅ずみから、ものたちの悲鳴がきこえてくる。こどもたちの笑い声と悲しい声に混じって。
こどもが休みなくガラクタのような物で、自分の気にいったあれやこれやを作っているのを見ると、私もクヨクヨしていられなくなる。
上手とか下手とかそんなことを気にしているうちは、まだまだだ。
作品は一所懸命作ればいいのだよ。
人の心ほどアテにならないものはない。と、くったくした気持ちに押しつぶされそうになったときは、夢のような美しい作品を書くしかない。
したいことをするしかないんだ。
誰がとめようとしたいようにするしかないんだ。
今書くことは、今しか書けない。
今書きたいと思う気持ちが一番大事なんだ。
そして今書くことが。
書いてなんになると思うときがある。
しかし、やっぱりまた書いている。
流れというものは美しいものだ。
川の流れも、雲の流れも、目には見えない風の流れも。
流れの前で私は立ち止まっている。
私はつくづく幸福だと思う。花を見てまだワクワクするのだから。
蝉の声もコオロギの声も、私には悲しい響きに聴こえる。
何億何兆の死者の魂が私たちの罪が許されるように祈っているのだ。
私は、愛するものしか書くことができない。
だからいろんなものをたくさん書きたいとは思うのだが。
美しいものは人間を幸福にもし、不幸にもする。
美しいものが良いとは限らない。
美しい、醜いということは、絶対的なものではない。
美術館にあるものが美しいものだと考えるのは、思い込みにすぎない。
美術館という存在そのものがひとときの権力の幻影にすぎないと私は感じる。
花花は無心である。
今年より来年はもっと美しく咲こうなどと思ってもいないだろう。
美しくあろうなどと思ってもいないだろう。
私は花のようになりたいと思うのだが、人間をやめることができない。
私のほんとうの姿とはなんだろう。
私の中には、欲の塊しかないように思える。
自然に従って生きたいと思う時がある。が、しかし、時には自然にトコトン逆らってみたくなる。
父や母から離れようとする子どものように。
自然がその大いなる力で、人間を苦しめるのなら、私は、自然の前で頭を下げる気はサラサラない。
太陽は幻ではない。
いつかは消滅するものではあろうが、万物の前に確かに存在している。
数限りないものが夢まぼろしのように消えてゆく。
それらのものは存在しなかったのだろうか。
きょうも、私に関係なくあれやこれやが生まれては消えてゆく。
私はここに存在しているのだが、まるでカスミのようである。
私は太陽ではない。
この世に作品と呼べるものがあるとしたなら、それは、太陽と同じ物だろう。
名もない一匹の虫が、道路の上で死んでいた。
人びとは彼を虫と呼び、一瞥して通り過ぎる。
イラクで死んだ子ども達も、この国の人びとにとって、この哀れな虫のようなものかもしれない。
字を書くということは、声を発するということではないだろうか。単に文字を書くことではないと思います。声はひとり一人違う、しかし違うということが人と人を結びつけるのではないだろうか。
立派でたいそうなことばはきれいな箱のようです。しかし中身がからならただの箱にすぎません。立派でたいそうな箱でなくても、その中に声がいっぱい詰まっていれば、その箱はたんなることばであることをやめ、生きた世界に変身するのです。
上手な字とは、死体に化粧をしたようなものだ。
美しいことばに感動する人には、美しくない人が多い。
文字やことばは、我われをがんじがらめにする鎖である。
私にとって「書」とは、文字やことばを書くことではなく、文字やことばに導かれて、文字やことばを超えた世界を書くことです。
書の道は、書を習うひとり一人にそれぞれのゴールがあると思うのです。同じゴールを目指して競い合う道ではないと思います。
いままでの私の人生が、どんなに救い難く、みすぼらしいものであったとしても、私は死ぬまで、私が美しいと感じる先人たちから、より理想的な人生を学び続けたいと思う。
愛する人があり愛してくれる人がいる、これ以上の幸せはない。
平和は語るものではなく実現するものだ。愛とは、愛することであって愛について語ることではないように。
我われ人間のすることは、救い難いことばかりです。この様な人間は滅んでしまってもしかたないと思います。しかし、私の裡深くに光のようなものが在るのです。それは或る時私の外からやって来たようにも想います。その光が、たとえ私がどんな惨めな境遇になっても全てを優しく照らすのです。私にとって、それが救いであり、希望なのかもしれません。
息子の声がふとくなった。少し早い声変わりだ。かわいい少年は何所へいった。時など無ければいいと思う。
私が今日まで見たり、考えたり、学んできたことは存在という多面体の一面でしかないだろう。人間が存在を認識するということは常に未完の行いなのだろうが、しかし、存在をまるごと感じることは出来るかもしれない。
私は、自己の内側に悪魔的な危うく脆い、しかもしぶとく居座り続けている非人間的なものが在ることを知っている。このことを強く感じるとき、私は生きる気力を失い、自己の歴史を全て抹殺したくなる。波のように打ち寄せてくるそのような想念の中で私はまだ生きながらえている。私には人間を責める事ができない。
私は子供が嫌いである。汚くて、我儘で、アホウで、物わかりが悪くて、世界は自分のためにだけあると思っている。しかも私より進んでいてうるさい。それでも好きなところが一つだけある。それは、常に、言葉よりも先に生きているということだ。
悲しみも喜びも、不幸も幸福も、私には一つのことに思われる。
世界がどんなに不幸であっても、私は幸せだ。太陽は微笑み、鳥は歌う。木木は燃え上がり、私は結ばれている。
世界がどんなに悲惨であっても、私は幸せだ。ありとあらゆる悲惨が、私を一片の細胞にまで破壊したとしても、私は生きている。結ばれている。愛しい人がいる。
ある人が言う「世界に一人でも不幸な人がいる限り、私は幸福にはなれない」と。立派な人だと思う。しかし私は違う。たとえ悲しみしかない国に生まれたとしても私は幸せだ。私は生きているし、一緒に悲しむことが出来るから。

他の生命の犠牲のうえにしか生きては行けない生命の宿命を、いつの日か人間はのり越えるだろう。樹も鳥も人も土も水も分け隔てのない世界が、新しい人びとによって実現される日がくるだろう。まだほとんどその兆しはないけれど、樹がそれを教えてくれている。
書の基準は、「自由」である。
(2003年10月~12月・会員つうしん第68・69号掲載)

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