花
- harunokasoilibrary
- 2月8日
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更新日:6月1日
ぼくは、「自分」を表現しようとは思わない。したいと思ったこともない。
自分は、おそらく、この宇宙で二度と繰り返されることのない、掛け替えのない生命現象であるだろう。しかし、それは、ぼくだけではなく、かつて存在した、また、今存在している全ての生命にいえることだ。もしかしたら、それは、生物無生物の区別なく、存在するもの全てにいえることかもしれない。確かに、ぼくは掛け替えのない存在だが、取り立てて表現するほどの存在だとは思わない。鏡に映った自分を見るように、自分を視つめてみると、そこには、哀れで、つまらない、みすぼらしく、取るに足りない、罪深く、慾だらけの、無能な、影か塵のような人間が見えるだけである。ぼくは、このような人間を表現したいとは思わないし、恥ずかしくて表現できるものではない。芸術が自己表現だとするなら、ぼくには、芸術活動などとてもできたものではない。
ぼくは、ぼく自身の心の深淵を時には視つめることもあるが、それは幸福な人間には無縁な、孤独で病的な異常人の所業である。つまらない自分にとらわれるより、ぼくは、美しい花を見つめていたい。世界は絶望と虚無と欺瞞に満ち、ソドムとゴモラはデーモンのように決して滅ぶことがない。
しかし、世界は活き活きとした生命で満ち溢れている。母はレンブラントの絵のように慈愛に溢れ、子供たちの愛らしさは此の上もない。恋人と二人でいると、交尾期の鳥のように、ぼくは、我を忘れて囀らずにはいられない。樹のなんと神々しいことか。その根を、幹を、枝を、芽を、燃え上がるような葉叢を、ぼくは感じ、触れ、融合し、昇天する。蝶の翅の、花びらの、虫たちの、鳥の、魚の、色も形も。太陽の、月の、星星の、海と風の、水の流れの、岩石を浮かべるマグマの海の、光も音も。世界は、ぼく以外の、優れた人やもので溢れている。ぼくは、その人やものを、なぞるように書き写し表現したい。
画家のジョアン・ミロは言う。「絵そのもの以上に大事なのは、絵が空気の中に放つもの、絵がまきちらすものだ。絵が失われたとしても、かまいはしない。芸術だって死ぬこともある。大事なのはそれが大地に草を芽を生やさせたことだ。・・・一枚の絵がいつまでもそのままであってほしいなどと気遣うべきではない。それよりもその絵がいくつもの芽を萌えださせ、種をまきちらし、そこから別の物が生まれてくることだ」。(阿部宏慈:訳)
このミロの言葉は、有名なミロだから言えることかもしれないが、「ミロの言葉」と限定せずに、無名の人間の言葉として聞けばよいと、ぼくは思う。ミロという此の上なく個性的な、世界に一つしかない人間の口を借りて、普遍的な、無名の人間が語っているのだと。
おそらく、ミロは、一本の花のことを考えていたのではないだろうか。花は・・科・・属、・・種と名づけられ細かく分類されてはいるが、それぞれ一本の花に名前はない。分類整理し名づけるのは人間の勝手だが、花はただ咲いているだけだ。花は生きるために生きているのだ。在るがままに在るだけだ。美しく咲こうなどとも思ってはいない。誰のためにも咲いてはいない。自然に従いこの世に生まれ、生き、土に帰って行く。ふと誰かの目に触れたとき、そのものの心の中に種が蒔かれ新しい芽が伸びる。花は消えても、誰も知らなくても、別のところで姿を変えて花は生きつづけているのだ。
ぼくは、このような花のありようを美しいと思う。自己を顕示したがるのが芸術家だとしたら、芸術家とはなんと花から遠い存在だろうか。このような芸術家を最も価値あるものとしている社会があるとしたら、その社会のなんと美から遠いことだろうか。
ぼくはこのような花に囲まれて一緒に生きて行きたいと願う。そしてその花を表現したいと思う。花をなぞっていると、ぼくも花になったような気がするから。
ぼくは、ぼく以外の、無名の美しい花たちを書きつづけようと思う。そうすればいつの日にか、ぼくも花になれるかもしれない。(2004年4月・会員つうしん71号掲載)


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