点
- harunokasoilibrary
- 5月11日
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更新日:5月31日
点の書かれ方を見ると、その書の質がわかるといわれる。
いつ頃からかそのように思っているが、誰がそれを言ったのか忘れてしまった。
褚遂良(ちょすいりょう)の雁塔聖教序(がんとうしょうぎょうじょ)をみると、その点の表情の多様さに目を瞠(みは)る。
その点の表現には、一点一画に心をこめ、丁寧に楽器を演奏するかのような書きぶりの褚遂良の本質が感じとられる。
虞世南(ぐせいなん)も欧陽詢(おうようじゅん)も顔真卿(がんしんけい)も褚遂良ほど多彩ではないが、それぞれ違った独特の点の書き方をしている。
ぼくは、書を書きはじめた頃、点が気になってしかたがなかった。
スイカの種や柿の種は点を書くための手本であった。
点は作物の種のように発芽し、茎を伸ばし、書の線に成長するのかもしれない。
点がしっかりしていないと花も咲かないし、実も生(な)らないであろう。
点がしっかり書けるようになってはじめて豊かな収穫が期待できるのである。
点を見るとその書の本質が分かるというのは正しいように思う。
実用を言う書道ではこのようなことは無用のことである。
決まりきった同じ点をくりかえし書けばよいのである。
教育や実用を言う書道は書道ではなく、記号を上手に書くだけの習字である。
そんなものはわざわざ筆を持って練習する必要もないであろう。
書道は、基本的な筆づかいが出来るようになったら、心のままに書けば良い。
昔から、といっても、王羲之あたりから、文字に感情や心を込めるようになったようで、それまでは読みやすく丁寧に書ければ上等であったのであろう。
漢字は生まれた初めから神聖文字であったかのように言う学者もいるが、ぼくは、長江(ちょうこう)の下流あたりで生まれた実用的な記号としての漢字が、殷(いん)に伝わって、王の専用の漢字になって、宗教的な占いに利用されたと想像している。
甲骨文字は神聖なものではなく、占いの結果を記すだけの記号である。
記号は読みやすく活字的であるほうが良いだろう。
篆書も隷書もそのような記号であったから、きちんと粒がそろって読みやすく丁寧なのが基本であったと思われる。
活字が実用化されるまでは、職業としての字書きは、機械のように上手に書ける技術を持っている者が一般には尊重されたのであろう。
今、活字やワープロがあるのに実用や教育を言い、手書きを言う書道は、意味のないことをうたい文句に、書道事業をしているにすぎない。
書を実用と言うのなら、パソコンの練習をしたほうが、よほど美しい文字を打ち込むことが出来るのではないだろうか。
活字ほど整った文字はないが、しかし、これらは書ではない。
王羲之(おうぎし)や宋代の文人たちは、技術よりも人間性を重んじた。
書の伝統とは、筆づかいに通じるだけでなく、文字の歴史もしっかり学び、学識を深め、人間性も研(みが)かれ、そして、やがて自然とにじみ出てくる深ぶかとした美のことであるとぼくは思う。
ぼくたちは点のような存在である。
長い生命の重なりの結果ここに在る一つの点である。
果てしない生命の流れの中の一つの結果である。
その結果はまた、他の生命に重なっていく。
ぼくたちは生命の河を形づくるかけがえのない一点である。
ぼくたちの周りにいる小さな虫も、海を泳ぐ巨大なクジラも、すべての生命がぼくたちと同じ生命の流れをつくっている一つの点である。
目の前の猫や犬や鳥たちや咲く花が、一つ一つぼくと同じ、何十億年という時の流れの重なりの結果、ここに在る生命の点だと想うと、彼らとの不思議なつながりを感じ親しみがわいてくる。
ぼくたちは何処(どこ)へ行くのかは分からないが、生命は永遠である。
生命はさまざまに姿を変えて、無数の点と共に果てしなく流れて行くのだ。
自然や生命のことを考えていると、書というものが、ちっぽけな人間のちっぽけな文化のようにおもえて、こせこせと書法なるもについて思い悩んでいる自分がアホーのように見えてくる。
文化をも含めた文明の歴史とは戦争と滅亡の歴史ではないか。
現在まで、いかなる文化も戦争をくいとめ永遠の平和をもたらしたものはない。
人間の最高の知性や思想が恒久の平和を実現したためしがない。
しかし、今のところ人類は滅亡していないし、明日、核戦争になったとしても人類は完全には亡びないであろう。

なぜ亡びないか。
それは、知性や文化があるからではなく、人間も星や山や海と同じ生命の重なりの中に生きている、生命の河の一つの点であるからだ。
人間は組織化されていても、一人一人は独立した一つの点である。
ある目的を持った何者かが点をまとめて動かそうとして戦争をしてきたのだ。
集団の力を信仰している狂信者が、人びとを争いへと駆り立てる。
それらの行為も生きのびるためにしたことではあろうけれど、ぼくは一人で自由に生きて行ける道を探したいと、いま思っている。

自然の豊かさを思うとき、それに並ぶくらいの豊かな点を書きたいと思う。
自分にしか書けない唯一の点が書けるはずである。
そうしたからといって世界が平和になるわけでもないし、人びとが幸せになるわけでもないが、たいした目的もなく、ただそうしたいだけである。

(2011年10月・会員つうしん第116号掲載)

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