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  • harunokasoilibrary
  • 4月3日
  • 読了時間: 5分

更新日:6月1日

 今、この国には、セールと書かれた張り紙のように愛という言葉があふれています。

この国だけでなく世界中の政治や宗教や組織の指導者たちや著名な人たちも軽軽とまた重重しく、愛を口にしたり書いたりしています。映画やテレビドラマや本は愛のお話で花盛りです。

 今だけでなく、昔から人類の指導者もそうでない人も愛をかたってきました。文学も音楽も愛の表現でいっぱいです。愛という言葉は、使い古され、うす汚れた、ぼろぼろの古雑巾のようです。愛と口にするだけで恥ずかしくなるくらい陳腐な言葉になってしまいました。キリストの愛、仏陀(ぶっだ)の慈愛、神への愛、母性愛、人類愛、恋愛、友愛、博愛、愛国心、愛なんとか博、愛という言葉は掃いて捨てるほどあります。

 しかし、これらは愛という言葉にすぎません。言葉は実体ではありません。愛という言葉をいくら書いても、世界の中心で叫んでも、愛そのものにはなりません。にもかかわらず、あり過ぎてほとんど意味の分らない、ゴミのようなこの言葉を多くの人人は口にし、書いています。映画やテレビで、感動的な愛のドラマに涙しても、世界の悲惨は何一つ変わりません。かずかぎりなく愛は書かれて来ましたが、世界は混乱し、暴力と欺瞞(ぎまん)は美しい言葉に飾られ、姿を変えて、不死鳥のように蘇えっています。その美しい言葉の多くは、芸術家や知識人と呼ばれる人達によって、権力に奉仕するために作られてきました。そして指導者たちは、その美しい言葉で愛をかたりながら、破壊と殺戮(さつりく)を繰り返しても来ました。それは今も進行中です。

 

 愛はあるのでしょうか?

 言葉でない愛、ほんとうの愛は何処(どこ)にあるのでしょうか?

 

 愛し合う男女に愛はあるでしょうか?所有するところ、報いを求めるところ、利用するところに愛はありません。家庭に、夫婦に、親子の間に愛はあるでしょうか?恐怖や服従や束縛のあるところ愛はありません。学校に愛はあるでしょうか?強制や競争や分離や努力のあるところ愛はありません。会社や社会に愛はあるでしょうか?序列や差別や支配のあるところ愛はありません。自分や自分の仲間の勝利や存在を誇示するスポーツ界にも芸能界にも芸術界にも愛はありません。世界の指導者には愛はありません。なぜなら、人人の上に立ち差別と分離の頂点にありながら同時に愛することは出来ないからです。言うまでもなく暴力、戦いのある所に愛はありません。葛藤や矛盾のある所に愛はありません。嫉妬や羨望のある所に愛はありません。伝統は私たちに安心と安定を与えますが、しかしそれは創造ではありません。伝統は過去のものです。それは、愛ではありません。愛のないところ腐敗があるでしょう。そこでは悲しみが永遠に続くでしょう。

 愛は理解、思いやり、慈悲、寛大,優しさのある所にしかありません。思いやり、慈悲、寛大、優しさという言葉ではなく、言葉にならない行為のことです。語りえない行為の中に、すぐ消えてしまう行為の中に在る、思いやり、優しさのことを言っているのです。その行為の在る所に愛があります。テレビや新聞で語られた美しい言葉や映像は欺瞞です。そのようなものは、愛ではありません。

 

 

 少し前まで公園の木木(きぎ)には花も葉もありませんでした。木木の幹や枝は昼見ても夜見ても恐ろしいまでに美しい力で天に向かって生命(いのち)の線を描いていました。数日たってその梢を見上げましたら毛細血管のような細い枝に小さな愛らしい芽が無数についていました。私はそのアラベスクの美しさに見とれて、しばらく呆然としてしまったほどです。乳白色の大気に包まれて木木は楽しげでした。そこに愛があります。

 今は、瞬く間にさくらの花びらが散り、道端に積もっています。それを、フーと吹いたらふわふわした雪のようで、なんとも楽しくて何度もフーフーやりました。その花びらにも愛が隠れていました。

 木木の葉芽(ようが)は急速にほころび、木木は靜かに佇んでいても、生命(いのち)は激しく燃え上がるように動き続けています。まだ幼い木(こ)の葉たちは生命(いのち)のリズムに乗って踊っているようでした。その葉末(はずえ)に愛がありました。

 風も大気も太陽も花びらの上の雨の雫(しずく)も草花も気が遠くなるほど美しいものです。そこにはほんとうの創造があります。創造はすべて新しいものです。そこに生命(いのち)があり愛があります。

 

 

 愛とは何でしょうか?愛は未知のものです。未知のものは言葉で説明することは出来ません。愛は生きて在るものです。常に動いているものです。常に新しいものです。だからそれは創造です。愛は観念の中にはありません。愛は行為です。言葉は愛ではありません。愛は表現出来ないものです。だから表現されたものは愛ではありません。

 愛には過去も未来もありません。時間のあるところ必ず始めと終りがあります。時を越えて在る愛に終りはありません。もちろん物理的な時間は、過去、現在、未来と続くでしょう。しかし、それは観念の中にしかありません。実在するのは今だけです。

 

 愛は時間のない世界に在ります。愛は進化しません。それは常に新しいので名づけることが出来ないものです。愛は考えることの出来ないものですが、感じることは出来ると思います。自然には愛しかありませんから注意深い人は愛を知覚できるでしょう。人間の社会には愛は無かったと私は思います。人間の心がそれを見えないようにして来たのです。人間の社会から悲しみをなくせるのは愛だけでしょう。人が心をほんとうに理解したとき、そこに愛が在ることに気づくでしょう。そのとき暴力は消滅し、平和という言葉ではない、ほんとうの平和が訪れるでしょう。


春野かそい書 愛 2000年制作
春野かそい書 愛 2000年制作

(2005年4月・会員つうしん第77号掲載)

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