2020年書き初め大会感想
- harunokasoilibrary
- 7月5日
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いつの間にか、書展も紙上展も、年年善くなるどころか、悪貨がはびこるようになってしまいました。
私が出品者に忖度して、本当のことを言わなくなったからだと思います。このような書展をしていても意味がありませんから、もう止めようかと思っていましたが、やはり、かすかな可能性にかけて、言うべきことを言ってからにしようと考えました。それで、数年前から、かなり厳しく、私が正しいと思うことを言ってきました。
それでも、それはあなたの考えに過ぎず、人それぞれ、私には私の考えがあります、と言う方も居られるでしょう。そうなると、私は指導者ではありませんね。何時だったか「この会には指導者がいない」と外部の人に話している人もいましたし、いささか驚きましたが、そんなことはありません。私は、第一回野のはな書展から、毎年のように、腐敗した書壇から一線を置くように、出品者に語って来たのです。そのことを、良く考えてくれた会員も、少数ですがいましたが、去って行った会員も多かったのです。しかし、私は会員獲得だけの商売をしている訳ではありません。
書を習う目的は、会員それぞれ違うでしょう。それは当然です。しかし、私の考えを聞かなければ、野のはな書道会にいる意味は、あまりありません。書の初心者や習っている会員が、未熟な自分の考えを振りかざすとは傲慢です。
書を習うとは、書の美しさを学び、身につけることです。未熟でも、一歩一歩進んでゆくことが楽しいのではないですか。書も芸術の端くれです。「私は芸術なんかやる気はありません。凡人ですから」と、言う人も居られるでしょうが、まあ、芸術でなくとも、芸術的なもの、といえばいいでしょうか。芸術は難しいものです。大衆に媚びた文化人たちが、楽しむ、とか、遊ぶなど耳ざわりの良いことを言って、この国の人びとを腐敗堕落させてきました。「芸術は好き嫌いだ」というもっともらしい言葉はその典型です。芸術は好き嫌いといった、感性だけですむものではありません。理知的に学んで理解する勉強をしなければなりません。感性と理性のバランスが大切です。好き嫌いがすべてになれば、何でもありになってしまいます。今回の紙上展は、その傾向が現れてきましたね。手本で学んだ事がまったく活かされていない作品もありますね。次に、私が良いと思った作品の一部を紹介しておきます。
末永和子さんの「緩」は、面白おかしい作品を書こうなどとは微塵も思っていない、誠実さが感じられます。デフォルメはされているのですが、目立ちません。御自分の必然性に従って居られるのでしょう。
堀りえ子さんの「紡」は、デフォルメが適度にされ、墨の潤滑の変化と伸びやかな線質がとても美しく感じます。

お二人とも布置が見事に決まっています。
このような作品を拝見しますと、書道会を主宰してきてほんとによかったと感じます。他にも良い作品がいくつかありましたが、紙面が足りません。有難うございました。
(2020年2月・会員つうしん第166号掲載)


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