2020年七夕書道大会感想
- harunokasoilibrary
- 7月5日
- 読了時間: 4分
私は未完の「障害者権利条約」の3枚目の半分までを貼りつけていました。すでに2枚までは発表していましたから、残り6枚を仕上げようと思っていたのでしょう。この作品は春汀さんに捧げるためのものでした。その日の予定を終えて、かたづけはじめた頃でしょうか、4月11日夕方、私は、倒れたのです。もう帰らぬ人になっているところでしたが、運がよかったのでしょうか、神と愛する人達に守られて私は生きのびたのです。
永い間、倒れた日の前後の記憶がありませんでしたが、この頃やっと、少しずつ記憶がもどってきています。入院中、私の意識には、妻子のことと春汀さんと伯母たちの存在しかありませんでした。私は孤独でした。
私を活かそうとする力と、だめにしようとする悪魔の様な連中しかこの世には存在しないのだ、と心から感じました。私には、悪魔の正体がはっきりと見えたのです。亡き母の許へ帰りたいとも思いましたが、どうしても書かねばならないことがあるように思えました。そんな心境の時、偶然テレビでみた、室生寺の仏像の衣文の線に心がときめきました。わたしは、その衣文の線に癒され、励まされるのを強く感じました。同じころ見た映画「ドクトルジバゴ」の中に出てくるひまわりの姿にも心が奮え、自分もこのような作品を作って、孤独な人を励ましたいと強力に思いました。人を癒し、励ましたいと!
私が、思いもよらなかった妻子の愛溢れる行動や多くの、会の人達のお見舞いや、励ましの言葉が届いているのを知ったのは、退院後でした。
会の人達との断絶を感じていた私は、今後、学習会も出品者の作品へのコメントも止めようと思いました。そして、26回展で書展も終わりにしようと考えていました。なぜすぐ止めなかったかというと、どうしても「障害者権利条約」の前文と第一条を発表したかったからです。古株の悪魔の手先とその同調者たちが、私のコメントはいらない、とか、私のブログは読むな、とか、吹聴していたようですから、私はここまで腐敗している会なんか止めてしまおうと思ったのでしたが、何か腑におちないので、会の主だった人達数十人に「コメントはいるか、いるとしたらなぜいるのか」のアンケートを採ってもらいました。驚いたことにというか、予想通り、100%の会員がコメントは必要と答えたのでした。数パーセントの悪魔の手先たちだけが、天使のふりをして会を破壊しようとしていたのでした。まんまと、私はその落とし穴にはまるところでした。コメント抜きで指導も何もありませんねぇ。
以上、この場をお借りして、簡単にコメント再会の経緯を述べましたが、まだ、頭が十分に働いていないようです。どうか、乱文をお許しください。
今回、私は、出品作が、どのようなリズムで書かれているかを中心に観察しました。そのリズムにどのような感情なり思想が込められているか、否かをも観察しました。書とは線に表れたリズムと情動です。書は舞踊に近いでしょう。踊るように書かねばなりません。全身で書くのです。しかし、全身の動きを筆先に集中させねばなりません。踊りとは、そこが逆ですね。
書かれている言葉はさほど重要ではありません。もちろん、言葉は微妙に書き振りに影響を与えているでしょうが、言葉そのものは、愛のない人でも愛とか何とか歌えますから、嘘が簡単にまかり通るわけです。私を陥れようとした悪魔の手先の事を思い出せばわかるでしょう。
私は、良い音楽には、作曲者の独特の響きが感じられるものだと思います。例えば、私が好ましく感じている武満徹の音楽には、独得の響きがありますね。その響きを私は好んでいるのだと思います。書と音楽はよく似ています。良い書にも独特の響きがあります。王羲之の、欧陽詢の、顔真卿の響きなど、臨書をしながら、その響きを再現してみましょう。それが書の学習です。その響きは、書き振りのリズムと軟らかい毛筆によって表現されているのです。
(2020年8月・会員つうしん第169号掲載)


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