2019年七夕書道大会感想
- harunokasoilibrary
- 6月30日
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私は、何十年も書を学んできましたが、恥ずかしい事に、未だに書というものがよく分かりません。書展があるたびに、悩み、迷いながら、作品を何とか制作し、発表して来ましたが、いつも、不完全燃焼で鬱鬱とした気分で終ってきました。このような人は、書など止めてしまえば良いのでしょうが、未だにしつこく続けているのです。その理由の一つに、書は、(黴の生えた骨董のように、若い人たちには見えているのでしょうが、)なかなか、大変な芸術で、一筋縄ではいかないところが、他の芸術にはない、不思議な魅力でもあると、私が感じていることがあります。このような私が、皆さんの作品の批評をする事などは、とても不可能なのですが、代表という立場上、何か言わなければなりませんから、無理をして、単なる印象的感想と、書に対する漠然とした想いを述べる事を許してください。
書とは、文字を美しく書くことです。これは、文字の意味ではなく、造形的な表現の問題です。漢字は、意思伝達のために生まれてきたのか、誕生の時から神聖な文字だったのか、はっきりしませんが、原初から造形的に美しく書こうという意志を感じます。漢字は数千年の歴史の中で、殷・周代は篆書、漢代は隷書、晋代は行草楷書と姿を変えながら変化して来ました。漢字には、それぞれの時代の空気を反映した歴史があるのです。漢字から生まれた「かな」も漢字に比べて歴史は浅いですが、千年の時間の重なりがあります。
「美しく書く」とは、時代によって美の基準が違いますから、一言で申し上げることは難しいが、現代には現代の生活感覚にあった文字の美があるのではないでしょうか。だから、上代様でも王羲之の行草書や唐代の楷書でも、そのままでは骨董品の美にしかならないと思います。また、現代に変体仮名を使うのも、どうかと思います。現代日本では、やはり、常用漢字と平仮名、片仮名を基本に美を実現するのが本当ではないでしょうか。それから、表現だからといって安易に文字をデフォルメするのではなく、たとえば、「い」を何万字も書くくらい追及して、現代に合った表現を実現するくらいの真摯さがなければならないと思います。
書は、言葉(文学)を書きますから、文学に対する深い造詣がなければ、表現は浅いものにしかなりません。自分が書く詩文だけでなく、文学一般を深く鑑賞研究して、普段から豊かな教養や人間性を養う努力を怠ってはいけないと思います。もちろん、文学だけでなく、芸術一般、科学、政治など、豊かな知性と感性を錬磨することも大切な書の修業の一つでしょう。
ここまで、芸術としての書について簡略に述べてきましたが、世の中には趣味的な書もありますから、それを好む方は、適当に楽しめば良いのではないでしょうか。造型的にも、文学的にも書としては、たいしたものではありませんが、わが子の書いた文字や恩師の色紙などを大事にする風潮も、昔から世間に流布している書道観の一つではあります。
いずれにしろ、皆さんが、書を末永く、楽しんで学ばれることを、私は心から願っています。
ありがとうございました。
(2019年8月・会員つうしん第163号掲載)


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