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2016年書き初め大会感想

  • harunokasoilibrary
  • 6月1日
  • 読了時間: 3分

 今日までわたくしは、書を教え、朱をいれたり、丸をつけたり、書について語り文を書き、作品を売り、月謝もとって、生活してまいりましたが、書というものが解っていた訳ではありません。今も、書というものが何なのか解らないまま、惰性で書を手付(たつ)きとして暮らしています。書はもちろん好きですが、わたくしは書を愛しておりません。なぜなら、陶芸家の加守田章二(かもだしょうじ)が語ったと同じ意味で、書を利用しているからです。利用のあるところに愛はありません。書に利用価値がなくなれば、わたくしは、あっさりと書を捨てることでしょう。わたくしは、中国や日本の書という形を利用して、書とは違うものを創ろうとしているのです。わたくしの書は書の伝統とは無縁です。わたくしは、書を杖にして、人間の存在、生と死、幸せなどという国ぐにを彷徨している旅人にすぎません。そして、生と死を超えた、宇宙そのものを形にする仕事がわたくしの書の表現なのです。わたくしの書は書ではありません。よって、わたくしは書家ではありません。

 間違いなく書を愛しているだろう書家の井上有一さんの展覧会に行かれた野のはな書道会会員の何人かの方がたが、その書に大変感動され、わたくしも以前その魅力にはまった一人だと述べておられますが、わたくしは、はまったわけではありません。あの和太鼓まがいのはったりに、瞬間だまされたのです。最近は、何かイベントがあると、きまって和太鼓を叩いているようですが、今のわたくしは、このようなこけおどしは好みませんし感動もいたしません。井上有一さんに関しましても、あのように人前で平気で書きたがる人間とは肌が合いませんし、あのような人が芸術家と呼ばれる人なんでしょうが、ほとんどの芸術家と呼ばれる人はナルシストだとも思いますから、そういった意味では別段珍しい芸術家でもありませんねえ。

 このようなわたくしが、みなさんの作品を見て、思いついたままの印象批評をしているわけです。何か、書というものが分かりはしないかと、微かな期待をもって、奇妙な寸評にもならない寸評をしているのです。言葉を探しながら作品を凝視していますと、いつの間にか言葉が生まれてくるのですが、その言葉がどこからやってくるのか、わたくしにも分かりません。それでも、みなさんが意識しようがしまいが、わたくしが感じたもののいくばくかは、みなさんの中にあるものだと思います。作品には、何らかの、書き手の中にある、宇宙の片鱗が嵌め込まれているように、わたくしは感じます。思いつきに過ぎない寸評ですが、これからの書の勉強と自己の反省材料に役立つことを願っております。

(2015年2月・会員つうしん第142号掲載)


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