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2016年七夕書道大会感想

  • harunokasoilibrary
  • 6月6日
  • 読了時間: 2分

 今年の七夕大会も、月並みな言葉や自作の詩歌や俳句などあり、楽しく鑑賞させていただきました。どの出品作も、ふだん学んだ事を活かして、意欲的に書かれていたと思います。私のコメントは、批評などというたいそうなものでは無く、軽い感想のようなものですから、自分にとって都合の良いところだけ覚えておかれると好いでしょう。


 私が最も憎むものの一つが虚偽(嘘)です。私はお世辞は言いません。率直な陰日向(かげひなた)の無い言動を愛します。私の率直なコメントに傷つく人もいるでしょうが、ひねくれずに、素直に、本当の友人の言に耳を傾けることを御すすめします。


 さて出品作のいくつかに触れながら、考えたことを少し述べましょう。


 出品者には、書かれた言葉を読むだけで、書作品の鑑賞が終わったと思う愚かな人はいないと思いますが、1882年(明治15年)、小山正太郎という洋画家と岡倉天心とのあいだで「書は美術ならず論争」が起こりました。そこで小山は「書は言語の符号、書の複雑な形とアルファベット(蟹行文・かいこうぶん)の単純さの違いは、文字の意匠の違いに過ぎない」と述べました。書は言葉の記号で、大事なのは書かれている言葉の意味内容であるというわけです。書きぶりや、造型的な工夫などはどうでも良いことで、書かれている言葉だけが大事というのです。今でも読めない書を認めない頑迷な愚か者がいますが、このような人は、パラダイムが19世紀のままなのですねぇ。小山は抽象画を知らなかったのです。線や色や形だけで表現する世界がある事をまだ知らなかったのです。彼には、抽象的な書線の表現力など思いもよらなかったのでしょう。


 今回、特に私が心惹かれた作品は、村井みや子さんと山林登さんの短冊、それから堀りえ子さんの作品です。これらの作品のどこに惹かれたか詳しく述べる余裕はありませんが、一言で言えば「書は人なり」と言うことです。漱石が言っている意味での「書は人格」であると言うことです。その人格を、それも気高い人格を、これらの作品の詩文や俳句と書画の書きぶりから感じて心惹かれたのです。


 「芸術とか文芸とかいうものはパーソナルである。・・・吾々にとっては芸術は二の次で、人格が第一なのです。個人の思想なり観念なりを中心として考えるということである。・・・文芸家の仕事の本体すなわちエッセンスは人間であって、他のものは附属品装飾品である・・・」(大正3年1月17日、現、東工大での夏目漱石の講演から)

(2016年8月・会員つうしん第145号掲載)

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