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2015年書き初め大会感想

  • harunokasoilibrary
  • 5月31日
  • 読了時間: 3分

更新日:5月31日

 新しい年がはじまり、事務所に行くたびに、しだいに、その壁をうめていく書初め作品を見て、ぼくは、いつも思ってきた。あー、まだまだ一生懸命な人たちが大勢いる、今年もまた頑張っていける、と。そして、同じ字を書いても百人百様の書があるのだなあ、と。

人には個性があり、その生き方も、考え方も、感じ方や見え方も十人十色である、ともいえるし、また、人間の考えることや感じることは、おおよそ、似たりよったりである、ともいえるだろう。

 一つ一つの作品を見て、顔も声もちがう、個性的な人達の姿や人柄を、想像することはできるが、本当のところは分からない。書には、おそらく、書いた人の全てが刻み込まれているのだろうが、今のぼくには、それを解読することは、とてもじゃないが、できるものではない。どうして、地球と、いや、もっと大きな宇宙と同じくらいの、計り知れない堆積物でつくられている人間の心が、ぼくに分かるはずがあろうか。

 ぼくに、少しだけ見えるのは、底知れぬ大海が、気まぐれに、風と戯れて見せる、波のしぶきのような、一粒の人のこころである。

 書を見るとはどういう事であろうか。

 作品を見て、生き生き、伸びやかだ、力強く、優しく、柔らかい、誠実な、寂しさ、哀しさ、おおらかだ、純朴だ、神経質だ、繊細だ、明るい、余白が生きている、間が抜けている、正確だ、バランスが良い、整っている、丁寧で真面目、堂々としている、踊っているよう、歌っているよう、祈っているよう、伝統的、理知的だ、麗しい、骨がある、筋がある、血が通っている、艶がある、綺麗だ、美しい、気力が満ちている、剛毅だ、枯れている、淡白だ、などと感じたり考えたりするのだが、これは、作品がその様な感じを与えるように書かれているから、そのように感じるのであろうか。

 同じ作品を、複数の人が見て、正反対の感想を持つことがある。ある人は、眼が醒めるようだ、と感じ、別の人は、眠っているようだ、と感じる。もし、作品の中に、眼を醒まさせるような何かがあるのならば、誰が見ても、眼が醒めるようだ、と感じるであろう。それを見る眼さえ持っているなら、それらの人たちは、みな同じ感想を持つことだろう。

 ぼくは、そうは思わない。作品には、作者の人柄なり、書の歴史なりが含まれているのかもしれないが、人はそんなものを見てはいないだろう。いや、見ている人もいるだろうし、見ても良いけれど、どちらにしろ、人が見ているものは、自分自身である、書を見るとは、書を仲立ちにして、自分自身を見ているのだ、とぼくは思う。

 本当に美しい書に出会いたければ、(美しい書との出会いは、人間が生きつづける意味との出会いである、とぼくは考えている。)あいまいな言い方だが、自分自身の人間的うつわを、大きくする以外に道はない。

 漢字と毛筆を持っている私たちは、幸運な星の下に生まれたように思う。漢字は、「書画同源」であるから、絵のような形がある。「雲」と書いて、ひつじ雲のようにも入道雲のようにも雨雲のようにも描ける。また、「雲」には、自然界の雲の意味だけでなく、人によって、様ざまな意味がある。だから漢字は、豊かな感情や思想を表現する可能性に満ちた文字である。

 毛筆は、柔軟だから、運筆の方向や勢いや強弱などの変化で、音楽のように、線に感情を込めることができる。


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(2015年2月・会員つうしん第136号掲載)


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