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2014年書き初め大会感想

  • harunokasoilibrary
  • 5月24日
  • 読了時間: 3分

更新日:5月31日

 生来、怠惰で、めんどくさがりやの私ですが、たくさんの、熱心な出品者に励まされて、書について考える一つの機会を与えられたことに感謝します。

 しかし、見たくもない作品でも、立場上、仕事だから、批評し、添削し、何らかの適切なアドバイスをするのが義務でしょうが、その程度の心無いアドバイスなど何の価値もないでしょう。私のコメントは、心無いとは申しませんが、ほとんど、たいした意味はないと言えるでしょう。よって、私の言葉に、一喜一憂する必要はありません。私の言葉が、時に輝くときがあるならば、それは、義務ではなく、心から、本当に感じて、生まれ出たことばだからでしょう。

 さて、書には、空海のころから、いや、もっと古くからかもしれませんが、日常の書と、芸術の書、とがありました。日常の書は、メモ書きや日記など、他人が見ることを想定しない書です。手紙もそのように言われますが、これは他人が見ることが前提ですから、単なる日常の書とはいえないでしょう。しかし、用件だけを書きつけた手紙や事務的書類などは日常の書ではあります。

 日常の書は、それまでに習って覚えた文字を、ほとんど無意識に、また多少整えたりして書いたものですが、芸術の書は、どのように見られるかを意識して、作為的、美的に表現した、非日常の書です。

 書初め作品は、もちろん、非日常の書です。

しかし、言うまでもありませんが、普段書いている日常の文字で「馬」を書いてはいけない、という規則などはありません。だがまた、芸術としての「馬」を書こうとしているときに、わざわざ日常普段の文字で書こうとするのには、それなりの美的な理由がなければならないでしょう。

 実用的な書道をいくら練習しても芸術にはなりません。教育書道も同じです。もしこれらの書道に芸術へとつながる意味があるとすれば、それは、筆を自由自在に使いこなせるテクニックを身につける事ぐらいでしょう。空海も良寛も自在に筆を使えるようになってはじめて、独自の書を、思いのままに書けるようになったのです。しかし、独自の書はテクニックだけでは生まれません。テクニックは、美意識に規定されています。その美意識に変化が起こってはじめて新しい書が現れるのです。

 美しく良い字を書くには、常に美意識を鍛えなければなりません。杜甫も李白も西行や芭蕉や蕪村も旅をして、日常生活で、慣れて鈍感になった感覚や頭を、生き生きとした新鮮なものに鍛え直し、独自の作品を創造したのです。

 創作をするとは、自己を表現するようなものではなく、日常から自分を解き放ち、本当の自分や真実に気づく、旅のようなものです。

 「馬」を通して、さまざまな美意識に出合えた事に改めて感謝します。

(2014年2月・会員つうしん第130号掲載)

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