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2012年書き初め大会感想

  • harunokasoilibrary
  • 5月14日
  • 読了時間: 2分

更新日:5月31日

毎年、この季節になると憂鬱になる。

何人が書初めを出品するだろうか、しないだろうかと。

書初めを、かこうがかくまいが、それはどうでもいい事だが、五月の書展のことを思うと、少しだが心配になるのだ。

書初めもかけない奴が書展に出せるのかと。

それから、こちらの意欲まで無くなるような駄作ばっかりだったらどうしようかと。

幸い、今年も今までと同じく、要らぬ心配であった。

ぼくが、いかに興味深く鑑賞したかは、個々の作品のコメントに多少は表れているだろうから、ここでは、書をすることについていくつか古人の言葉に耳を傾けたいと思う。

「文字が左右に転(たお)れ側(かたむ)くのは、王羲之の字勢(じせい)である。その用筆の跡は、奇(き)に似ていながら、反(かえ)って正(せい)の書になっている。」(董其昌『画禅室随筆』第1巻11より)

王羲之の字は、歪んで奇妙に見えるが、それは、運筆の展開上、用筆の自然に従って現われた形である。一見、奇に見える自然さが本当の美しい書を生むのだ。「古人は書を作るに、必ず正局(せいきょく)を作らず。蓋(けだ)し奇を以(も)って正となせばなり。」(董其昌『画禅室随筆』第1巻13より)

正局とは、法に従って整然とそろった文字のことである。

優れた書は、活字のような決まりきった形を再現するものではなく、運筆展開の自然に従って自ずと形づくられるものである。

もちろん、運筆を先導するのは書き手の思いであり、心である。

その思いや心の深さや強さが、「書は人なり」の根っこにあるのだろう。しかし、「人」はそう簡単に表現されるものではない。

「書の道は只(ただ)巧妙の二字に在り。拙(せつ)なれば即(すなわ)ち直率(ちょくそつ)にして化境(かきょう)無し。」(董其昌『画禅室随筆』第1巻8より)

書き手の考えや感情が生き生きと表現された、自然な書を生み出すには、筆墨の理にかなった巧みな技術がなければならない。拙ならば、癖がでるのみで本当の自分を表現することはできない。

五月の書展に向けて、個性的な多様な書が見られるように願う。それにしても、いつになったらこの憂鬱から解放されるのか。

自然にまかせるしかないのだろうが。

(2012年2月・会員つうしん第118号掲載)


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