2011年書初め大会感想
- harunokasoilibrary
- 5月10日
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更新日:5月31日
蘇東坡(そとうば)は『東坡題跋(とうばだいばつ)』の中の「魯公帖(ろこうじょう)に題す」で、「書を観て、それを書いた人がアホかカシコか、良い人か嘘つきか、ヤンチャかオトナシイかなんかは分かるわけがない。人は見かけによらないのと同じである。」と言っている。正直!
しかし、そのあとで「書は、それを書いた人の生きた肉体や普段の生活ぶりから離れてはありえない。」とも言っている。これが大事!
まさに賢人東坡のおっしゃるとおりだ!
多くの「練」を観て、ぼくは書いた人の人柄を品評したのではなく、作品の印象を思い付きで述べたまでである。賢人のおっしゃるとおり、人柄など書を観て分かるわけがないのだから御安心を!
さて、どれもこれもおもしろくて、ぼくは楽しんで鑑賞したのだが、気になることを二三述べます。
一つは、書の線にたいする感性が不足していること。
なぜか?学習不足とカンチガイ。
線には響というか、色というか、質の違いがある。
線は無限にあるが、まずは楷・行・草・隷・篆書の典型的な線を習わなければならない。
それぞれの書体の線質の違いを感覚で分かるようになるまで練習と鑑賞をくりかえすことである。
その基本的な五体の線に、各人の書きぶりの工夫が加わって、人の顔が一つとして同じものがないように、書の線にも人の数だけの顔がある。
それぞれの書きぶりによって点画が組み合わされ、世界に一つしかない作品が生み出される。
文字の形も大事だが、形にはほぼ定形があり、メチャクチャにはできない。
形は運筆の結果として微妙にゆがむからおもしろいのである。形よりも、線と用筆にたいする意識を高くもつことだ。
もう一つは、印と余白のこと。印は認印としての役目もあるが、シャチハタではない。
印には作品の重要な一部としての役目があり、押す位置によって余白が生かされなければならない。
そして、作品の品格を高めるような、作品に調和した印を使うことも大切である。
小難しいことを申しましたが、みなさんが、書の本質を深く理解して、意味のある作品づくりをすることにより、楽しく意義深い書道生活を送られることを心から願ってのことである。お許しあれ。
(2011年2月・会員つうしん第112号掲載)


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