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カクワハイシリーズ
2013年

死への恐怖を消滅させようと制作された。

「カクワハイ」とは中央アメリカに住むインディオの言葉で「悪魔払い」のことである。英語ではエクソシスムといい、アイヌ語のカムイノミ(神への祈り)と同じようなことだろうか。仏教での加持祈祷も同じようなこととおもわれる。

この連作は、フランスの作家ル・クレジオの次のことばに共感して書かれた。

「現代世界をおびやかすあらたな大洪水に抗して、一人の作家になにができるのだろうか。(中略)おそらく、森のインディオと同じように、ひたすら躍り、音楽を奏でること、丸木舟のまわりに集まったこれらの男たち、これらの女たちの祈りを一つのものにするために、語り、書き、行動することができるのだろう。(中略)あらたな大洪水に抗して書こう。踊ろう」

各作品は、そこに書かれている言葉の意味を表現しているわけではないが、書かれた言葉と表現との間に何の関係もないはずがない。

ぼくは、複雑で単純な思いをすべて忘れて、悪霊の姿を闇の中から引きずり出し、葬りさろうとしたのである。

この作品は、生きとし生けるものの平安のための祈りとして書かれるはずでしたが、私と母のための祈りとして書かれました。インディオの儀式と同じように、母を病気や死から奪い返すために書いたのです。そして、死がどうしても避けられないのでしたら、せめて、母と私が、悲しみや苦しみや不安や恐怖から解放されるように祈ったのです。胸騒ぎがしまして、母が亡くなり、もう、つづきが書けなくなるのではないかと感じ、出来るだけ早く書き上げて、母のそばに居ようと、がんばりましたが、28番を4月19日の夜遅く書き上げて寝ていますと、午前2時頃、訃報の電話が届きました。4月20日の午前1時39分に亡くなったとのことでした。母は、いつもと変わりなく寝て、いつの間にか亡くなっていました。午前3時前に、私は一人で施設に駆けつけました。穏やかで、やさしい、きれいな寝顔でした。母の顔と手に触れましたが、ひんやりとして、やわらかく、まだ生きているようでした。カクワハイの願いはききとどけられました。しかし、火葬を終えた後、私は、もう何も書く意味がないように感じ、母と共にすべては終わったのだと感じ、雑用を無気力にやりながら、疲れ果て、葬儀屋の儀式のバカバカしさにも腹も立たず、悲しく寂しいばかりでした。もう、私はだめかと思っていましたが、22日の朝、早く目が覚め、仕事をやりとげねばならないと思い、薄明りのなかで、29番を書き上げました。母の死後、はじめて書いた文字です。書く前に、新緑の木々をながめていましたら、「悲しみのなかから、新しい生命(いのち)が生まれるのだ」と母の声がきこえたような気がし、私は活き活きとして書き上げたのです。書き上げると、母のいないむなしさに涙がしきりと出ましたが、つづいて30番を書き上げ、カクワハイは完成しました。

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